パンアメリカン航空103便爆破事件
[Wikipedia|▼Menu]

パンアメリカン航空 103便事故後の機体残骸(機首部分)
出来事の概要
日付1988年12月21日
概要 リビア政府によるテロ事件
現場 イギリス・ロッカビー
乗客数243
乗員数16
負傷者数0
死者数270(全員、地上含む)
生存者数0
機種ボーイング747-121
運用者 パンアメリカン航空 (PAA)
機体記号N739PA
出発地 フランクフルト空港
第1経由地 ロンドン・ヒースロー空港
最終経由地 ジョン・F・ケネディ国際空港
目的地 デトロイト・メトロポリタン・ウェイン・カウンティ空港
地上での死傷者
地上での死者数11
テンプレートを表示

パンアメリカン航空103便爆破事件(パンアメリカンこうくう103びんばくはじけん)は、1988年12月21日に発生した航空機爆破事件である。通称ロッカビー事件、パンナム機爆破事件。

リビア政府の関与の下で実行されたテロ事件として国際問題となり、被害を受けたパンアメリカン航空(パンナム)がその後に経営破綻する遠因にもなった。
航空機と乗務員当該機のボーイング747(N739PA)

コールサイン:クリッパー 103(CLIPPER 103)

運航乗務員(パイロット):3名(JFKを拠点としている)

機長:ジェームス・ブルース・マックウォーリー(55歳・無線担当)

機長の総飛行時間:11,000時間(内747は約4,000時間)

副操縦士:レイ・ワグナー(52歳・操縦担当)

副操縦士の総飛行時間:約12,000時間(内747は約5,500時間)

航空機関士:ジェリー・ドン・アヴリット(46歳・1980年のナショナル航空とパンナムの合併により転職)

航空機関士の総飛行時間:約8,000時間

客室乗務員:13名

乗客:243名

事件の経緯
ロンドンでの機材変更

1988年12月21日、パンアメリカン航空103便は、西ドイツフランクフルトからイギリスロンドンニューヨークを経由してデトロイトへ向かうフライトプランで運航されていた。

ただし、フランクフルトからロンドンまではボーイング727で、パンアメリカン航空のハブ空港であるロンドンでボーイング747-100 「Clipper Maid of the Seas」(海の乙女号)に機材変更されることになっていた。

ロンドンからの便には、フランクフルトから来たボーイング727から引き続き103便に乗る乗客47名と乗員2名に、ロンドンから搭乗する196名の乗客と乗員14名が加わった。またボーイング727からの貨物はノーチェックでボーイング747に搭載された。103便は予定より30分遅れて1時間30分のトランジットの後にヒースロー空港を離陸した。
爆破ロッカビーの位置(黒点で表示、スコットランド)事件現場

103便がヒースロー空港を離陸してから40分後の現地時間午後7時3分頃、スコットランド地方のロッカビー上空31,000フィート(約9,400m)を飛行中に、前部貨物室に搭載されていた貨物コンテナが爆発し、機体が空中分解した。機体の残骸は広い範囲に飛散したが、両翼と中央胴体部分がロッカビー村の居住区に落下し、民家を巻き込んで大爆発して長さ47m、深さ9mの大きな陥没跡を残した[1]

その結果、同機に搭乗していた乗員16名・乗客243名全員に加え、住民11名も巻き込まれ、計270名が死亡した。乗客にはロンドン在住の日本人(当時26歳)も含まれていた。空中爆発および燃料の引火により、犠牲となった乗客のうち10人と住民11人はついに発見できずに終わった。運航乗務員、客室乗務員、そしてファーストクラスの一部の乗客はシートベルトを着用したまま発見された。検視官によると事故直後に客室乗務員1人が農家の妻に発見されるも、助けを呼ぶ前に死亡したようで、他にも生存者がいたとされる。

事故捜査が始まった当初、103便の機材は就航して約19年(1970年2月15日就航)になる経年機だったことから、経年劣化による空中分解が疑われた。しかし、103便の航空貨物コンテナのレールが墜落から程なくして発見されると、そのレールの損傷が爆弾の炸裂によるものだったことが明らかになる。103便の胴体・尾部の破断線および部品の地上落下位置を示したAAIBモデル
緑-墜落現場の南部
赤-墜落現場の北部
灰-墜落現場のクレーター
黄-ローズバンク(ロッカビー)
白-未回収

爆発は機体前方の貨物室にあった航空貨物コンテナの下部で発生していた。もし30分の遅れがなく、フライトプラン通りに運航されていれば、103便は大西洋上空で爆発していたはずであった。爆発の原因はプラスチック爆薬の一種セムテックスを用いた時限爆弾の爆発によるもので、日本製のラジオカセットレコーダーに偽装されスーツケースの中に隠されたうえで、機内に貨物として積み込まれていたものであった。

機体の残骸にこの爆弾に使用されていたラジカセの基板が突き刺さっていたが、ラジカセを包んでいたとされる衣服の特徴的な繊維から、衣服がマルタ島で販売されていたことが判明した。そこからアメリカとマルタの捜査当局による捜査が行われ、スーツケース(と爆弾)の足取りと所有者が判明した。

復元された機体

分解された窓枠部分

リビアの関与ロッカビー市役所内にある犠牲者を追悼するステンドグラス

当初、アメリカ当局は同年7月にアメリカ海軍イージス巡洋艦ヴィンセンス」がイラン航空エアバスA300イラン空軍戦闘機と誤認して撃墜したイラン航空655便撃墜事件に対する、イラン政府による報復行為ではないかと疑っていた。また、103便の事件が発生する数ヶ月前、ドイツでは航空機爆破を計画していたパレスチナ人のテロリストグループが逮捕されており、パレスチナ人によるテロが行なわれた可能性も疑われた。さらに、サウジアラビアの新聞社にはイスラム原理主義を名乗る悪戯の犯行声明が届いた。この他にもIRAが犯人として疑われた。

調査が進むうち、残骸から発見されたタイマーの製造元が分かり、その会社が製造したタイマーは全てリビアへ売られたことが判明した。さらに、爆弾を入れたスーツケースに入っていた服を売っていた店がマルタにあることが判明し、その従業員の証言から買ったのが「リビア訛りの強い男」と特定されるに至る。

このことから、リビア人のアブドゥルバーシト・アル・メグラヒ(英語版)とアル=アミーン・ハリーファ・フヒーマの2人が容疑者として浮上した。彼らはリビアの情報機関に所属しており、アメリカによる1986年4月15日トリポリをはじめとするリビア爆撃に対する報復としてこの事件を起こしたとされる。皮肉なことにリビアの空爆はリビア当局のテロ行為支援に対する報復という名目であったため、「テロに対する報復」がさらなる「テロによる報復」を生じさせていた。

事件で使われた爆弾は、パンアメリカン航空のボーイング727がマルタの空港に着陸した際に積み込んだといわれているが、この点は後の裁判でも争点になっており、詳細はわかっていない。一説ではマルタ航空機がフランクフルト国際空港まで運んだ航空貨物であったという説もある[2]。また、2週間前にフィンランドヘルシンキにあるアメリカ大使館に犯行を予告する電話があったが、航空当局に通報されたにもかかわらず、「航空会社の経営へ悪影響を及ぼす」ということと、「テロリストを利するだけ」という理由から無視されていた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:34 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef