パル・レコーディング・スタジオ
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パル・レコーディング・スタジオ
Pal Recording Studio
設立1958年
設立者ポール・バフ
現況解体(1966年)
本社所在地
アメリカ合衆国 カリフォルニア州クカモンガ(現ランチョ・クカモンガ)
8040 North Archibald Avenue, Cucamonga, CA

パル・レコーディング・スタジオ (英語:Pal Recording Studio)は、1950年代後半から1960年代半ばまでアメリカ合衆国カリフォルニア州クカモンガ(現ランチョ・クカモンガ)に存在した録音スタジオである。軍事技術者だったポール・バフ[1][2]が設立し、1964年に所有者になったロック・ミュージシャンのフランク・ザッパがスタジオZ (英語:Studio Z)と改名して活動の拠点にした。
歴史
ポール・バフによる設立

ポール・バフ(Paul C. Buff、1935年-2015年)[3]はクカモンガの出身で、高校を卒業後、アメリカ海兵隊で一年間、航空電子機器(aviation electronics)について学んだ。その後クカモンガに戻って、ジェネラル・ダイナミクスに職を得て、誘導ミサイルの部品の技術者として働いた。9か月後、21歳の彼はジェネラル・ダイナミクスを辞め、1000ドルを借りてクカモンガにパル・レコーディング・スタジオ(以下、パル・スタジオとする)を設立した[注釈 1]。パル(Pal)は、彼の両親が経営していたPal-O-Mineという音楽出版社の名前に由来した。

バフは1/2インチ幅テープの職業用テープレコーダーを改良してオーバーダビングを可能にして、5トラックのレコーダーを作り上げた[注釈 2]。当時は録音した音源をレコード会社に聴かせる為にはオープン・リール方式のレコーダーを使わなければならなかった[注釈 3]が、バフは自分が録音したレコードをレコード会社に売り込む時に会社が即座に試聴できるように、ディスクカッティング旋盤(Rec-O-Cut lathe)を購入して、マスター・レコードを簡便に作る機材を揃えた[注釈 4]。そして、サーフ・ミュージックドゥーワップのシンガーやグループとマスター・レコードやマスター・テープを制作して、ハリウッドにあったキャピトル・レコード、デルフィー・レコード(Del-Fi Records)、ドット・レコード(Dot Records)、オリジナル・サウンド(Original Sound)などのレコード会社に売り込んだ[4][5]。また、自分もエミ―・レコード(Emmy Records)[6]というレコード会社を設立して、レコードを発売した。

1962年にはザ・シャンテイズ (The Chantays) の「パイプライン」のオリジナル・デモを録音。また同年冬、学生時代の同級生に連れられたザ・サーファリス(The Surfaris)というサーフ・ミュージック・グループを迎え、彼等が持参した'Wipe Out'という曲の録音を行なった[7]。このインストゥルメンタルは、翌1963年1月にDFS[8]、2月にプリンセス(Princess)[9]という小さなレコード会社からシングル・レコードとして発売されたあと、4月にドット・レコードから発売されて6月にチャートの2位を記録するヒット曲になり、様々なサーフ・ミュージック・グループがパル・スタジオで録音する[注釈 5]きっかけを作った。

彼はスタジオを他人に貸してレコーディングさせることに飽き足らず、自分のレコードを作りたくなって、ギター、ベース、ドラムス、キーボード、サクソフォーンの演奏も学んだ。
フランク・ザッパの活動

フランク・ザッパ(Frank Zappa、1940年-1993年)は12歳でドラムスを叩き始め、高校生の時にはドラマーとしてR&Bバンドで演奏した[注釈 6]。さらに17歳の時にギターを弾き始め、アンテロープ・バレー・ハイ・スクールの同級生のドン・グレン・ヴリートとドゥーワップ・グループやR&Bミュージシャンのレコード鑑賞を通じて親交を深め、彼がギター、ヴリートがボーカルを担当してレコーディングをするようになった。1958年6月にアンテロープ・バレー・ハイ・スクールを卒業後、ジュニア・カレッジを中退して[注釈 7]、1959年にハリウッド近郊に移って音楽活動を続けた。そして19歳にして西部劇映画Run Home Slow[10][注釈 8](1965年公開)の映画音楽を担当した。

ザッパはオンタリオに住んでいた1960年に、ロニー・ウィリアムスというギタリスト[11][12]と知り合った。ウィリアムスが在籍していたザ・マスターズ(The Masters)というバンドは、バフのプロデュースによってデビュー・シングル'T-Bone'をパル・スタジオで録音して、同年10月にエミ―・レコードから発表していた[13]。ザッパはウィリアムスからパル・スタジオの事を教えられてバフに会った[注釈 9][14]

1961年、ザ・マスターズはパル・スタジオでシングル'Sixteen Tons'を録音して6月にエミ―・レコードから発表した[15]。このシングルのB面に収録された'Breaktime'はバフ、ウィリアムス、ザッパが共作したインストゥルメンタルで、バフがピアノ、ウィリアムスがドラムスとベース・ギター、ザッパがギターを演奏した。この曲はザッパがロック音楽の作曲者として名を連ねた初めての楽曲だった。

ザッパは1961年6月から11月まで映画The World's Greatest Sinnerの音楽を書いてパル・スタジオで主題曲を録音し[16]、引き続いてバフの下で働いてレコーディング技術を学んだ[17]。1962年には、ポモナで出会ったボーカリストのレイ・コリンズを誘って、共同でレコーディングを行なった。彼等は1963年にNed and Nelda[18]の名義でシングル'Hey Nelda'[注釈 10][19]、Baby Ray and The Ferns[20]の名義でシングル'How's Your Bird'[注釈 11][21]を発表した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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