パルラ
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Parla


 マドリード州
 マドリード県
面積24.43 km2
標高648.5m
設立1255年頃
人口125,323 人 (2014年)
人口密度5,129.88 人/km2
住民呼称Parlenos
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パルラ(Parla, スペイン語発音: [?pa?.la])は、スペインマドリード州ムニシピオ(基礎自治体)。スペインの首都マドリードから約20km南、マドリード大都市圏の最南端部に位置する。2014年の人口は125,323人。
歴史
先史時代・古代

この地域からは旧石器時代チャートで作られた石器が出土している。紀元200年頃にはイベリア半島の沿岸部からやってきた遊牧民がこの地域に定住しはじめ、銅などの金属加工、放牧、農業、織物の知識をもたらした。これらの入植者はウマネホスの流れに沿って居住していた。

4世紀から5世紀には中央ヨーロッパからケルト人がやってきて、この地域の人口が増大した。この地域の住民は放牧や農業などを行って生活していたが、ケルト人は製鉄や陶器などの先進技術をもたらした。カルタゴ人やローマ人の登場によって独立した町としての発展が中断された。ローマ人はこの地域のローマ以前の歴史を記録しており、またローマ時代の遺物として多くの墓石や硬貨が残っている。

711年頃に起こったグアダレーテの戦いを契機として、ウマイヤ朝がイベリア半島を征服(英語版)し、パルラの町とその住民はイスラーム勢力であるウマイヤ朝の支配領域の一部となった。
中世・近世

カトリック勢力によるレコンキスタの過程で、パルラから南に60kmの距離にあるトレドがカトリック勢力の下に戻ったのは11世紀後半のことである。この過程でパルラも再び独立した町となり、この領域はマドリードのアルフォス(いくつかの村や町を内包する、中規模の領域)の一部となった。当時のこの地域には2つの集落があった。北のパルラと南のウマネホス(Humanejos)である。ウマネホスの集落は1650年頃に姿を消した。

文献でパルラが初めて言及されるのは、1338年1月6日にトルヒーリョカスティーリャ王アルフォンソ11世が書いた手紙である。アルフォンソ11世はムーア人に対する戦いへの支援のお礼として、パルラの集落の管理権を枢機卿に譲った。この手紙は1351年12月7日にカスティーリャ王ペドロ1世によって確認されている。

ナポレオン戦争中の1808年から1814年にスペインとフランス帝国が戦った半島戦争後、パルラには他地域からやってきた多くの貧しい難民が定住した。
地理

パルラの標高は648.5mであり、面積は24.43km2である。マドリード州の6自治体と境界を接しており、北はフエンラブラーダと、東はピント(スペイン語版)と、南はトレホン・デ・ベラスコ(スペイン語版)やトレホン・デ・ラ・カルサーダ(スペイン語版)と、西はグリニョン(スペイン語版)やウマネス・デ・マドリード(スペイン語版)と接している。

マドリード都市圏におけるパルラ(最下部の中央)

アスンシオンの聖母教会(旧教会)

旧自治体庁舎

ラ・ラグーナ地区の街並み
パルラの並木道
人口

20世紀初頭のパルラの人口は1,237人に過ぎず、1960年の人口も1,809人に過ぎなかった。しかし、1960年代後半にはスペイン国内で農村部から都市部への国内移民が盛んとなり、パルラは急激な人口増加を経験した。1970年には人口が10,317人に達し、10年間の人口増加率は470%を記録した。1970年代にも移民の波は続き、カスティーリャ=ラ・マンチャ州アンダルシア州エストレマドゥーラ州などからの国内移民がマドリードへの通勤に便利なパルラにやってきた。1981年の人口は56,318人、1991年の人口は70,048人となった。1996年には国外からの移民の波が訪れ、北アフリカのアルジェリアやモロッコ、ルーマニア、ポーランド、サハラ以南のアフリカ諸国からの移民で再び人口が増加した。この傾向は今日も続いており、2014年の人口は125,323人に達している。


パルラの人口推移 1900?2012

出典:INE(スペイン国立統計局)1900年 - 1991年[1]、1996年 - [2]

政治

1979年の第1回地方自治体選挙からずっとスペイン社会労働党(PSOE)から自治体首長が選出されてきた。


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