パルマ
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この項目では、イタリア・エミリア=ロマーニャ州のパルマについて説明しています。他のパルマについては「パルマ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

パルマ
Parma


旗紋章

行政
イタリア
エミリア=ロマーニャ
県/大都市 パルマ
CAP(郵便番号)43100
市外局番0521
ISTATコード034027
識別コードG337
分離集落#行政区画参照
隣接コムーネ#隣接コムーネ参照
公式サイト ⇒リンク
人口
人口197018 人 (2023-01-01 [1])
人口密度755.5 人/km2
文化
住民の呼称parmigiani (parmensi: gli abitanti della provincia)
守護聖人Sant’Ilario
祝祭日1月13日
地理
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯44度48分05.3秒 東経10度19分40.8秒 / 北緯44.801472度 東経10.328000度 / 44.801472; 10.328000座標: 北緯44度48分05.3秒 東経10度19分40.8秒 / 北緯44.801472度 東経10.328000度 / 44.801472; 10.328000
標高57 (25 - 184) [2] m
面積260.77 [3] km2
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} パルマの位置

パルマ県におけるコムーネの領域
ポータル イタリア
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パルマ(イタリア語: Parma ( 音声ファイル))は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州にある都市であり、その周辺地域を含む人口約197,000人の基礎自治体コムーネ)。パルマ県県都である。

古代に起源を有する都市で、中世は自治都市として栄えた。パルマ大聖堂を中心に中世都市の景観が残る。16世紀半ばから19世紀のイタリア統一まではパルマ公国の首都であった。「美食の都」として知られており、特にプロシュット・ディ・パルマ(パルマハム)で有名である。食品産業が盛んであり、ヨーロッパ連合の外局である欧州食品安全機関の本部も置かれている。
地理
位置・広がり

パルマ県北東部に位置する。レッジョ・エミリアから西北西へ26km、マントヴァから南東へ54km、ピアチェンツァから東南東へ57km、州都ボローニャから西北西へ87km、ラ・スペツィアから北東へ88kmの距離にある[4]パルマ県概略図
隣接コムーネ

隣接するコムーネは以下の通り。括弧内のREはレッジョ・エミリア県所属を示す。

コッレッキオ

フェリーノ

フォンタネッラート

フォンテヴィーヴォ

ガッターティコ (RE)

ランギラーノ

レジニャーノ・デ・バーニ

モンテキアルーゴロ

ノチェート

サーラ・バガンツァ

シッサ・トレカザーリ

サンティラーリオ・デンツァ (RE)

ソルボロ・メッツァーニ

トッリーレ

トラヴェルセートロ

気候分類・地震分類

パルマにおけるイタリアの気候分類 (it) および度日は、zona E, 2502 GGである[5]。また、イタリアの地震リスク階級 (it) では、zona 3 (sismicita bassa) に分類される[6]
市街

パルマは、パルマ川という小さな川で2つの区に分けられている。パルマ出身の詩人アッティリオ・ベルトルッチ(映画監督ベルナルド・ベルトルッチの父)は、こう書いている。『首都となる都市は川がなくてはならない。小さな首都であるなら、しばしば干上がる小川があるといい。』
歴史
先史

パルマは既に青銅器時代に形作られていた。現在の市がある場所にテッラマレ(Terramare)という村があったと立証されている。テッラマレは、薪による木の構造をした住居からなる古代の村落で、体系がはっきりした四角い形であったといい、一般的に川に近接した乾いた土地の上に建てられていた。この時代(紀元前1500年から紀元前800年)、最初のネクロポリスも建てられていた(現在ピアッツァ・ドゥオモと石臼広場のある場所)。
古代

市はおそらくほぼ、エトルリア人に建てられて名付けられた。パルマ(円形の盾)は多くのローマの言語と同様ラテン語から借用したもので、Parmeal、Parmini、Parmnialはエトルリアの碑文に現れる名前である。ディオドルス・シクルス(XXII, 2,2; XXVIII, 2,1)は、エトルリア人のものをまねた円形の盾をローマ人たちは自分たちの長方形の盾に変えたと知らせている。エトルリア人野営地は丸くて盾のようであったのでそう名付けたか、パルマの位置が北方のガリア人に対する盾となっていたからだとか、説に選択肢が多い。

古代ローマ植民地は紀元前183年につくられ、同時にムティナ(現モデナ)もつくられた。2,000世帯が移住した。パルマはエミリア街道とクラウディア街道といった陸上のハブ地として重要であった。当時は集会所が開かれ、現在ガリバルディ広場となっている。紀元前44年、市は破壊され、アウグストゥスが再建した。ローマ帝国時代、帝室に対する忠節から『ユリア』の称号を授かった。

市は瞬く間にアッティラに略奪され、のちに傭兵出身のオドアケルによって彼の部下へ与えられた。しかしゴート戦争(en)の間、トーティラがパルマを破壊した。東ローマ帝国ラヴェンナ総督領の一部となり(市名を『黄金都市』を意味するクリソポリスへ変えられた。


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