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出典検索?: "パルプ" バンド
パルプ
基本情報
出身地 イングランド・シェフィールド
ジャンルインディー・ロック
アート・ロック
グラムロック
ポストパンク
ブリットポップ
活動期間1978年 - 2002年
2011年 - 2013年
2022年 -
レーベルアイランド・レコード
公式サイト ⇒http://www.pulppeople.plus.com/
メンバージャーヴィス・コッカー
ニック・バンクス
キャンディダ・ドイル
マーク・ウェバー
旧メンバースティーヴ・マッキー
ラッセル・シニア
ジャーヴィス・コッカージャーヴィス・コッカー
パルプ (Pulp) は、イギリス・シェフィールド出身のロックバンドである。1978年結成、2002年解散。2011年に再結成。 70年代に結成され、10年以上の長き下積みを経てスターダムにのし上がったバンドであり、90年代のブリットポップブームの主役として、当時イギリスで社会現象的な人気を誇った。中心人物のジャーヴィス・コッカーがつくる、機知と皮肉に富んだ歌詞と妖艶なグラムロック調サウンドが特徴[要出典]で、「コモン・ピープル」はブリットポップ全盛期を代表する曲として有名で、ブリットポップのソングランキングでは、たいてい1位に選ばれている[要出典]。2017年にアメリカのウェブサイトPitchforkが選んだ「ベスト・ブリットポップ・アルバム TOP50」では、1位「Different Class」、7位「This Is Hardcore」、11位「His 'n' Hers」と3枚のアルバムが高順位でランクインしている。 2002年にいったん活動休止を宣言したが、2011年からツアーバンドとして再始動した。 2013年に再び活動を休止するが、2023年にUKツアーを開催することを発表した。[1] 以上のメンバーは、アルバム『Different Class』発表時のメンバーであり、バンドに長期間在籍したメンバーである。再結成した際も、主に上記のメンバーで活動を行っている。そのほか以前在籍したことのあるメンバーは約20人ほどに上る。オリジナルメンバーはジャーヴィスのみである。 1978年に15歳のジャービス・コッカーが結成した「アラバカス・パルプ」を前身として、1983年にインディーズのレッド・ライノ・レコードから1stアルバム『It』でデビューする。4年後の1987年にはファイア・レコードから 2ndアルバム『フリークス』をリリースするも大した話題にはならなかった。同年、ジャーヴィス自身の大学進学のためロンドンへ拠点を移すことになり、学業と平行しながらのバンド活動となる。当時はメンバーの入れ替わりが多く、1stアルバム作成時のメンバーで残っているのはジャービスだけである。2ndアルバムからギターのラッセルとキーボードのキャンディダが加入している。 ロンドンに移った後、当時ブームだったアシッド・ハウスの影響を受けた彼らは、3rdアルバム『セパレーションズ』を1989年に製作する。このアルバムからベースのスティーブとドラムのニックが加入している。しかしレーベルとの対立からリリースをさせてもらえず、ジャーヴィスも当分学業に専念し、しばらく活動は行われなかった。(この時期、ジャーヴィスは学校で、裕福なギリシャ人の令嬢と出会う。彼女との邂逅が後の「コモン・ピープル」の歌詞となった。) 1991年、ファイア・レコードからのシングル「マイ・レジェンダリー・ガールフレンド」がNMEに注目され、1992年、お蔵入りになっていた『セパレーションズ』のリリースにこぎ着ける。 1993年、ついに念願のメジャーレーベルとの契約を交わすと、翌年に発売したメジャーデビューアルバム『彼のモノ?彼女のモノ(His 'n' Hers)'』が全英Top 10入りを果たす。プロモーションの過程で数多くのテレビ・ラジオ番組に出演すると、個性的なジャーヴィスの風貌やフロントマンとしての存在感が大きく取り上げられるようになった。ここに至って、ついにバンドは長きに渡った下積みを終え、メジャーな存在として花開いた。 1995年、ツアー・マネージャーだったマーク・ウェバーを正式メンバーに加えて、アルバム『コモン・ピープル(Different Class)』を発表。このアルバムは全英No.1に輝き、10日間でプラチナム・セールスを達成、英国内だけで120万枚のセールスを記録した。「コモン・ピープル」、「ディスコ2000」、「サムシング・チェンジド」と、シングルは軒並みヒットを続け、バンドは爆発的な成功を収めた。と同時にブラー、オアシスらとともにブリットポップの一大ムーブメントの「顔」として社会現象を巻き起こす存在となった。さらに怪我で出場を取りやめたストーン・ローゼズの代役としてグラストンベリー・フェスティバルのヘッドライナーを務めた。 翌年のブリット・アウォーズでは4部門にノミネートされたが、マイケル・ジャクソンのパフォーマンス中に、彼に対する抗議のためステージに乱入する事件を起こす。(詳しくはジャーヴィス・コッカーの項目を参照のこと) 1997年、映画『007 トゥモロー・ネバー・ダイ』の主題歌候補として「トゥモロー・ネバー・ライズ」を作詞・作曲するが、最終選考でシェリル・クロウに敗れた[2]。 一躍スターダムにのし上がり、人気も頂点に達した彼らだが、ジャーヴィスは周囲からの異常な賞賛と、過度の期待がために徐々に精神を蝕まれていき、そこから逃避するかのように酒とドラッグに溺れていった。1997年、ブームの狂騒に嫌悪と無気力感を覚えたジャーヴィスは、これまでと作風の異なる陰鬱な新曲「ヘルプ・ジ・エイジド」を作るが、この曲がパルプに相応しくないと感じたラッセル・シニアがバンドを脱退する。1983年に加入したラッセルは、ジャービスを除けば最も古いメンバーであった。 残った5人によって1998年に発表されたアルバム『ディス・イズ・ハードコア』は、全編を通して暗く重いトーンの仕上がりとなった。全英1位を記録こそしたが周囲の期待を裏切る内容となったためか、前作から大きく売り上げを落とし、奇しくもブラーのデーモン・アルバーンがこの時期発言した「ブリットポップは死んだ」ということを裏付けるかのような結果となってしまった。 2001年に、ジャービスが尊敬するスコット・ウォーカーにプロデュースを依頼した『ウィ・ラヴ・ライフ』を発表するころにはブリットポップブームは完全に終息しており、チャートでは全英6位を記録。
概要
メンバー
ジャーヴィス・コッカー (Jarvis Cocker) : ボーカル、ギター
キャンディダ・ドイル (Candida Doyle) : キーボード
ニック・バンクス (Nick Banks) : ドラム
スティーヴ・マッキー (Steve Mackey) : ベース、プログラミング
マーク・ウェバー (Mark Webber) : ギター、キーボード
ラッセル・シニア (Russell Senior) : ギター、ヴァイオリン
来歴
デビュー・下積み時代
栄光の到来
活動休止
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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