パルチザン_(ユーゴスラビア)
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ユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊
ユーゴスラビア人民解放戦争第二次世界大戦)に参加
パルチザンが使用した旗
活動期間1941年 - 1945年
活動目的共産主義[1][2][3][4][5]
指導者ヨシップ・ブロズ・ティトー
本部可動
活動地域枢軸国占領下のユーゴスラビア
兵力80,000人 - 800,000人
後継ユーゴスラビア人民軍
関連勢力連合国
敵対勢力枢軸国ナチス・ドイツイタリア王国ブルガリア王国ハンガリー王国アルバニア王国)、ユーゴスラビアに設立された枢軸国の傀儡政権(クロアチア独立国セルビア救国政府)および他の武装組織(チェトニクウスタシャ、バリ・コンベタル)
戦闘ネレトヴァの戦い、スティエスカの戦い、ドルヴァル襲撃、ベオグラード攻勢、スレム戦線など
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ユーゴスラビアのパルチザン(partizani / партизани)[6]は、マケドニア語:Народноослободителна во?ска и партизанските одреди на ?угослави?а、略称:NOV i PO? / НОВ и ПО?)といい、第二次世界大戦時のユーゴスラビアにおける、枢軸国の支配に抵抗した共産主義者主体の勢力である[7]

正式名称はユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊[8]スロベニア語:Narodnoosvobodilna vojska in partizanski odredi Jugoslavije、セルビア・クロアチア語:Narodnooslobodila?ka vojska i partizanski odredi Jugoslavije / Народноослободилачка во?ска и партизански одреди ?угослави?е。パルチザンは、ユーゴスラビア共産党率いる人民解放戦線の軍であり[1]、その最高意思決定機関はユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)であり、ヨシップ・ブロズ・ティトーを最高指導者としていた。
概要

パルチザンはユーゴスラビアにおける共産主義国家の樹立を目指しており[9]、ユーゴスラビア共産党はユーゴスラビアに住む全ての民族の権利を擁護し、全ての民族に対して支持を訴えた。パルチザンよりも数週間早く設立された、もう一つの反枢軸の抵抗組織にチェトニクがあったが、チェトニクはカラジョルジェヴィチ家による王制の維持と、セルビア人の保護を目的としており[10][11]、チェトニクが正当で歴史的なセルビア人の土地と考える地域における他民族に対する民族浄化を通じて大セルビアを確立することを目指していた[12][13][14][15][16]。パルチザンとチェトニクの関係は当初より険悪であったが、1941年10月以降は全面的な衝突へと発展した。ティトーの汎民族主義は、チェトニクのセルビア人民族主義に反するものであり、チェトニクの王党主義は共産主義者のパルチザンには受け入られるものではなかった[17]

彼らは一般に「パルチザン」(パルティザン)と呼ばれており、この名前からはゲリラ勢力が想起されるが、彼らのゲリラ的な性質は最初の3年間でのことであった。1944年の終わり頃には、パルチザンの兵士の数は65万人におよび、4つの方面軍、52の師団を持つ軍隊組織となっていた[18]。1945年4月にはパルチザンの兵士は80万人を数えるようになり、この時代のパルチザンは「人民解放軍」と呼ばれることが多い。
背景「ユーゴスラビア侵攻」および「バルカン戦線 (第二次世界大戦)」も参照パルチザンの戦士スティエパン・フィリポヴィッチ。彼はヴァリェヴォにて枢軸国勢力に処刑される直前、「ファシズムに死を、人民に自由を」(Smrt fa?izmu, sloboda narodu!)と叫んだ。

1941年4月6日、ユーゴスラビア王国は四方より枢軸勢力の侵略を受けた。侵攻にはナチス・ドイツのほかに、イタリア王国ハンガリー王国ブルガリア王国が加わった。この時、ドイツ空軍によるベオグラード空爆(Bombing of Belgrade in World War II)が行われた。侵略は10日前後で完了し、4月17日にユーゴスラビア王国軍は無条件降伏した。ユーゴスラビア王国軍はドイツ国防軍と比べて装備が貧弱であったことに加え、あらゆる方面から一斉に侵入する枢軸勢力と戦うにはあまりに規模が小さすぎた[19]

枢軸国によるユーゴスラビア支配は極めて過酷なものであり、ユーゴスラビアは領土をばらばらに解体された。ドイツはスロベニアの主要部を併合し、また傀儡政権として設立されたセルビア救国政府の領域を占領するとともに、クロアチア独立国などの傀儡国家に対しても影響力を及ぼした[20]クロアチア独立国はこんにちのクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナ、さらにセルビアスレム地方を領土とした。ベニート・ムッソリーニ率いるイタリア王国はスロベニアの南部、コソボ、そしてダルマチアの沿岸部およびアドリア海の島々を手に入れた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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