軍事史
時代
パルチザン(英: partisan)とは、他国の軍隊または反乱軍等による占領支配に抵抗するために結成された非正規軍の構成員である。英語ではレジスタンス運動の一部にも適用される。第二次世界大戦中のナチス・ドイツやファシズム時代のイタリア(英語版)の支配に抵抗した各国の抵抗運動がその例である。
イタリア語のpartigianoからきたフランス語で、占領軍への抵抗運動や内戦・革命戦争といった非正規の軍事活動を行なう遊撃隊[1] およびその構成員[2] を指す単語である。ゲリラの類義語である[3][4]。 ラテン語由来の、「partisan」というフランス語が初めて現れたのは、17世紀において戦争を支持する党派の指導者を指すために用いられた時である。 パルチザン闘争の初めの概念は、戦闘地域の現地民(場合によっては正規軍)によって構成される部隊を使うことを含んでいた。彼らの目的は、敵戦線の背後で通信を妨害することや、前線基地として使われた拠点や村を占拠すること、輸送部隊を奇襲すること、戦争税や寄付を募ること、敵物資を略奪すること、敵が分散して軍事行動の拠点を守らざるを得なくさせることであった。 18世紀においてパルチザン戦術の教本として最初に使われたもののうちの一つは、1756年から1763年までの七年戦争中にプロイセン軍で工兵大尉を務めたハンガリー人の将校であったイェネイ・ミハーイ・ラヨシュが1756年にデン・ハーグで出版した「Le Partisan ou l'art de faire la petite-guerre avec succes selon le genie de nos jours」(パルチザン、または、私たちの時代の技術で小さな戦争を成功裏に遂行する方法)である[5]。ヨハン・フォン・エーヴァルトはパルチザンの戦略・戦術を1789年に執筆した「Abhandlung uber den kleinen Krieg」(小さな戦争に関する論文)で詳細に説明した[6]。 パルチザン戦闘の概念は、後にアメリカ合衆国における南北戦争の「パルチザン・レンジャーズ」の基礎を形作ることとなった。アメリカ連合国陸軍のジョン・モスビーのようなパルチザンの指導者は、ヨハン・フォン・エーヴァルト(後にアントワーヌ=アンリ・ジョミニとカール・フォン・クラウゼヴィッツの両者も)が解説した手順に沿って作戦行動を行った。本質的に、19世紀のアメリカのパルチザンは、ドイツ占領下のヨーロッパで軍事行動をしていた「パルチザン」よりも、第二次世界大戦中に結成されたコマンド部隊に近い。モスビー式の兵士であれば、合法的に自らの州軍の正規兵として考えられていただろう。 19世紀半ばのパルチザンは実質的に軽騎兵や非組織的または半組織的ゲリラとは異なるものではなかった。ロシアのパルチザンは彼らの激しい抵抗と持続的な襲撃によって1812年のフランスとの戦争でフランス軍をロシアから追いやることに寄与し、ナポレオンの凋落に大きな役割を果たした。 ロシア帝国は第一次世界大戦でも、スタニスラフ・ブラク=バラホーヴィッチ
歴史
ウクライナ蜂起軍ウクライナ蜂起軍の司令官ロマン・シュヘーヴィチ 1943年詳細は「ウクライナ蜂起軍」を参照