パリ講和会議
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この項目では、第一次世界大戦の講和会議について説明しています。その他のパリ講和会議については「パリ講和会議 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
会場となったフランス外務省。ケ・オルセーに面している(現在のヨーロッパ・外務省

パリ媾和会議(パリこうわかいぎ、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:巴里媾󠄁和會議、英語: Paris Peace Conference)は、1919年1月18日から開会され第一次世界大戦における連合国中央同盟国の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、国際連盟を含めた新たな国際体制構築についても討議された。「ヴェルサイユ会議」と呼ばれることもあるが[注釈 1]、実際の討議のほとんどはパリのフランス外務省内で行われており、ヴェルサイユ宮殿を会場に使ったのは対独平和条約(ヴェルサイユ条約[注釈 2]、対ハンガリー平和条約(トリアノン条約[注釈 3]、関連する諸条約(ヴェルサイユ小条約(英語版))の調印式のみであるため、その呼び方は正確ではない。
会議設置の前提「ウッドロウ・ウィルソン」も参照「ウィルソンが平和をもたらし、悪の支配を打ち倒す」と称えた、1919年にフランスで発売されたポストカード

ウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領アメリカ合衆国の参戦前にも「勝利なき講和」(英語: Peace without victory)を訴え、参戦後は「和解の平和」を唱えた。ウィルソンは懲罰的賠償や秘密外交を基本とする欧州の「旧外交」が今次の大戦を招いたと考え、その払拭を訴えた。これがいわゆる理想主義的なウィルソンの「新外交」と呼ばれるものである[1]

秘密外交に対する批判に答えたイギリスデビッド・ロイド・ジョージ首相は、戦争遂行のために「会議による外交」(英語: diplomacy by conference)を唱えた。「私は外交官を必要としない」「自分の国を代表する者として語る権限のない者達に(重要な問題を)論じさせることは単に時間の浪費である。」と語った[2]大衆的政治家であったロイド・ジョージは、全面戦争という状況には国民世論の支持が不可欠と考えていたためである。また、当時イギリスの大新聞を支配していたノースクリフ子爵は、講和会議代表に選ばれなかったことからロイド・ジョージと不和になり、政府方針以上の過酷な条件を求める記事を連日掲載した[3]。このため講和会議直前の1918年イギリス総選挙では講和条件自体が選挙の争点となり、ドイツに対する賠償要求世論が高まった。

1918年1月8日、ウィルソンは議会で「秘密外交の撤廃」「民族自決」などを含めた十四か条の平和原則を公表した。以降2月11日には「4原則」、9月25日には5原則を提示しこれを補強している。11月5日、アメリカ政府は十四か条と、それ以降の和平演説、さらに二つの留保事項を加えた和平勧告をドイツに行った(ランシング通牒)[4]。ドイツ首相バーデン大公子はこれを受け入れ、ドイツと連合国間で休戦協定が結ばれた。しかしイギリスはウィルソンの原則に同意しておらず、14か条が講和の原則でないとドイツに伝達することを考えていた[5]。しかし折からのドイツ革命の進展で、ドイツに共産主義政権が成立することを危惧したイギリスは、早急な講和のために不服ながらウィルソンの方針に同意した[6]

ウィルソンはこれらの新外交理念により、連合諸国の国民はもとより、ドイツなど中央同盟国の国民からも高い期待を持たれており、また彼自身もこれらの理念を信じていた[7]。一方で連合国が戦時中から唱えていた「ドイツ軍国主義の破壊」自体は、内政干渉に反対する保守勢力の反対によってほとんど放擲され、ドイツの政治制度について干渉することはなかった[8]

しかし第一次世界大戦で最も大きな負担を負ったフランスジョルジュ・クレマンソー首相は、ドイツ人に対する徹底的な不信感を抱いており、交渉や理念ではなく、実力でしかドイツ人を抑制できないと考えていた[9]

これら思惑の異なる諸首脳がパリに集まり、同時に行われるドイツ軍の武装・動員解除やロシア内戦等の世界情勢を念頭に諸問題が話し合われた。
会議の構成ウィリアム・オーペン『ケ・オルセーにおける平和会議(英語版)』

大戦中から連合国は最高戦争会議 (第一次世界大戦)(英語版)を結成して協議を行っていた[10]。1918年の10月ごろから会議開催地の選定が開始された。スイスローザンヌ、フランスのヴェルサイユが候補地としてあがり、最終的にパリが会議の場と決定された。ウィルソンはスイスで開催する案を持っていたが、当時スイスは労働争議や経済問題が悪化しており、鉄道も寸断されていたため会議を開ける状況ではなかった。フランス側はパリを会議場とするため以前から準備をしており、ウィルソンも同意した[11]

会議には世界から33ヶ国(イギリス自治領含む)70人の全権と1000人以上の随員が集まったが、連合国側での協議を優先するべきと言うイギリスやフランスの意見や、中央やロシアでは政治的混乱が続いていたこともあり、ロシアの代表は招請されず、敗戦国は講和条約案がまとまるまで招請されなかった[12]

最重要問題については「五大国」(イギリス日本アメリカフランスイタリア)の全権で構成された十人委員会(The Council of Ten)で行われることになった。なお「五大国」のうちフランスから船で約30日かかる遠距離にある日本は、現職の首脳・閣僚を派遣しなかった。また3月頃にロイド・ジョージの発言が外部に漏洩する事件が起きたため、3月25日から三大国の首脳とイタリアのヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド首相、通訳官のポール・マントゥー(fr:Paul Mantoux)で構成された四人会議(The Council of Four)で重要事項は討議されることになった。また三首脳が必要に応じて開催した少人数の秘密会でも協議されるようになった[13]。四人会議は正式な会議ではないとされたが、協議の詳細な内容は日本代表団を始めとする他国の代表団はおろか、ウィルソン以外のアメリカ代表団にすら伝えられなかった[14]。その他の重要な問題については、小国の代表も参加した5つの分野別委員会(国際連盟、労働立法、戦争責任、運輸(港湾・水路・鉄道)、賠償)によって討議された[14]
参加国
主要国(代表五名)
 
イギリス /  フランス /  イタリア王国 /  日本 / アメリカ合衆国
代表三名
 ベルギー /  ユーゴスラビア王国(セルブ・クロアート・スロヴェーン王国)/  ブラジル


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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