パリス市
City of Paris
パリス市中心部
位置
ラマー郡内の位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度39分41秒 西経95度33分23秒 / 北緯33.66139度 西経95.55639度 / 33.66139; -95.55639
パリス(Paris)は、アメリカ合衆国テキサス州北東部に位置する都市。ダラス・フォートワースの北東約160km、オクラホマ州との州境になっているレッド川の南約25kmに位置する。人口は25,171人(2010年国勢調査)[2]。パリスに郡庁を置くラマー郡1郡のみから成る小都市圏は49,793人(2010年国勢調査)[2]の人口を抱えている。
歴史パリスの鳥瞰図(1885年)
今日のラマー郡はテキサス共和国時代、レッドリバー郡の一部であった。しかし1840年頃には、人口の増加により、新たな郡を創設する必要に迫られた。レッドリバー郡選出のテキサス共和国議会下院議員ジョージ・ワシントン・ライトは、新郡創設を大いに支持した。やがて1840年12月17日、テキサス共和国議会の議決により新郡が創設され、同国第2代大統領ミラボー・B・ラマーの名を取ってラマー郡と名付けられた[3]。その4年後、1844年に、商人ジョージ・W・ライトが50エーカー(202,000m2)の土地を寄付し、パリスが創設されると共に、ラマー郡の郡庁が置かれた。パリスという名はライトの従業員の1人、トーマス・ポティートが、フランスの首都パリにちなんでつけたものであった。翌1845年2月3日には、テキサス共和国議会がパリスを正式に法人化した[1]。
南北戦争直前、パリスは約700人の人口を抱える、畜産(肉牛)と農業の中心地であった[1]。1861年2月23日に行われた、テキサス州の連邦離脱を問う住民投票では、ラマー郡は離脱に反対した18郡のうちの1つであった[4]。しかし開戦後は、多くの住民が南軍側についた[1]。パリスのユニオン駅
南北戦争の終結後、パリスには次々と鉄道が開通し、鉄道交通の要衝となっていった。1876年には、パリスに初めての鉄道となるテキサス・アンド・パシフィック鉄道が開通した。その後1887年にはガルフ・コロラド・アンド・サンタフェ鉄道(後にアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道、現BNSF鉄道)およびセントルイス・サンフランシスコ鉄道が、1894年にはテキサス・ミッドランド鉄道(後にサザン・パシフィック鉄道、現ユニオン・パシフィック鉄道)が、そして1910年にはパリスの名を冠したパリス・アンド・マウントプレザント鉄道が開通した。1912年、セントルイス・サンフランシスコ鉄道、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道、およびテキサス・ミッドランド鉄道各社の共同使用旅客駅として、ユニオン駅が設置された。この駅は1956年まで旅客駅として使われ、その後も20世紀後期に至るまで貨物駅として使われた後、1997年に改修、市に寄贈され、現在ではラマー郡商務局、およびラマー郡系図協会の図書館として使われている[5]。ユニオン駅は、1998年に国家歴史登録財に登録されている[6]。
その一方で、パリスは1877年、1896年、そして1916年と、3度にわたって大火に見舞われ、その度に大規模な再建が必要となった。1916年の大火では、市の半分近くが被害を受け、多くの歴史的建築物が焼失し、被害総額は1,100万ドル(当時)にのぼった。市中心部の大部分が焼け、火の手は周辺の住宅地にも広がった。この時に焼けた建物としては、連邦庁舎・郵便局、ラマー郡庁舎・刑務所、市庁舎、大部分の商業用建物、およびいくつかの教会などが挙げられる[7]。ヘンリー・スミスへのリンチ(1893年)
南部の他地域の多くと同様に、人種間の緊張も高まった。1893年、10代のアフリカ系の少年ヘンリー・スミスは殺人の罪を着せられ、何千人もの面前で、拷問された挙句焼き殺された。1920年には、市内のフェア・グラウンドで、アフリカ系のアーサー兄弟が旗竿に縛り付けられ、焼き殺された[8]。
1943年、連邦最高裁判所は、エホバの証人が絡んだラージェント対テキサス州の裁判で、市の許可無しに宗教的出版物の販売もしくは頒布を禁じていたパリス市の条例を棄却した。連邦最高裁判所はこの裁判において、この条例はアメリカ合衆国憲法修正第14条で定められた、信教の自由、言論の自由、および出版の自由を侵害するものであるという判決を下した[9]。サミュエル・B・マキシーの家(2015年)。1971年に国家歴史登録財に登録されている[6]。
第二次世界大戦が開戦すると、1942年、パリスの北8マイル(13km)のところに、キャンプ・マキシーという陸軍の歩兵訓練場が設けられた。アメリカ連合国陸軍の少将で、のちにテキサス州選出の連邦議会上院議員も務めたサミュエル・B・マキシーの名を冠したこの訓練場は36,682エーカー(148.45km2)の敷地を有し、その中にはハーケンクロイツを飾った建物を並べた、ドイツの村を模した訓練施設も設けられた。この訓練場は45,000人弱の訓練を行うことができた他、北アフリカで捕らえたドイツ軍捕虜の収容所としても使われた。また、この訓練場はパリスとその周辺地域に、10,000人以上の文官の雇用をもたらしていた。終戦後、1945年10月1日に、この訓練場は陸軍には使われなくなり、その後はテキサス陸軍州兵の訓練施設として使われている[10][11]。