パリの歴史(パリのれきし)は、2,500年以上に及ぶ。その起源はガリア人の小集落であるが、ヨーロッパ近代国家における多文化都市、かつ最も代表的な世界都市の1つに発展を遂げた。
古代パリシイ族の硬貨(メトロポリタン美術館所蔵)
少なくとも紀元前4世紀から、現在のパリの場所には人が居住していた。この時期の出土品によると、セーヌ右岸のベルシー
付近に集落があり、シャセ文化 (Chasseen culture) の特徴を有している。現在のパリの場所には、紀元前250年頃にケルト系部族のパリシイ族(Parisii)[注釈 1] が集落を形成し、セーヌ川の河畔に漁村が作られていたとされる。以前、当時の集落はシテ島にあったとされていたが、最近の研究では疑問が呈され、近年の出土品によると、ローマ時代以前のパリ地域最大の集落は現在のパリ郊外のナンテールにあった可能性が示されている。.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}左:シテ島にあるローマ時代の壁の遺跡(ラ・コロンブ通り)パリは繁栄し、河川の航行や交易上の拠点として戦略的な位置を占めた。この地域では、紀元前52年、ウェルキンゲトリクスがケルト人を率い、カエサルのもとのローマ帝国に対し反乱を起こしたが、これを鎮圧され、ローマ人の支配下に入った。紀元前1世紀末、パリのシテ島とセーヌ川左岸のサント・ジュヌヴィエーヴの丘は、ルテティアと呼ばれた新しいローマ人集落の中心となった[1]。パリ中心部のローマ風呂遺跡(クリュニー浴場)
ローマ人の支配下で、パリはローマ化が進んで発展したが、この地方の首都ではなかった。3世紀にサン・ドニが町で最初の司教となり、パリはキリスト教の都市となった[2]。これは必ずしも平和裏に行われたのではなく、250年頃、サン・ドニと2人の同胞は捕えられ、現在のモンマルトルの丘で斬首刑に処せられた[2]。パリにある円形闘技場(アレーヌ・ド・リュテスの遺跡)
ルテティアは212年、この地方の先住民であるパリシイ族(Parisii) の名称をとってパリに改称されたが、3世紀、4世紀は戦乱が多く安定しなかった。異民族の攻撃を受け、防御のための城壁が建設された。357年、コンスタンティヌス1世の甥であるユリアヌスがパリの新しい長として着任した。コンスタンティヌス1世はキリスト教をローマ帝国の正式な宗教としたことで有名であるが、ユリアヌスは「背教者」でありキリスト教の優遇を廃した。彼は361年にローマ皇帝となったが、そのわずか2年後に戦死した。
ローマ帝国による北ガリアの支配は5世紀に崩壊した。451年にこの地方はフン族のアッティラ王に侵略され、パリも攻撃される危機に直面した。伝説によると、聖女サン・ジュヌヴィエーヴ(英語版)とその信者の敬虔な行為によってこの町は救われ、祈りにより、アッティラの部隊はパリから南に去って行ったとされる。サン・ジュヌビエーブは今日でも、パリの守護聖人とされている。
中世初期最初のフランク王の頃のパリ
パリがアッティラから逃れたのもつかの間のことで、464年、フランク王国メロヴィング朝のキルデリク1世 (en:Childeric I) により攻撃される。彼の息子のクローヴィス1世は、506年にパリをメロヴィング朝の首都とし、511年の死後はサン・ジュヌビエーブのそばに埋葬された。
この時期までに、パリは木造の建物が密集して並び、ローマ帝国時代の遺構も残る典型的な中世初期の都市となっていた。歴史家のサン・グレゴリウスによると、585年に大火があったとされる。都市はシテ島の範囲を超えて成長し、セーヌの両岸に郊外が形成された。
751年、メロヴィング朝はカロリング朝に替わり、同年に最初に即位したピピン3世の次のカール大帝は、神聖ローマ帝国の首都をパリからアーヘンに移した。パリは帝国に顧みられなくなり、セーヌ川をさかのぼってくるヴァイキングの襲撃をたびたび受けた[3]。カロリング朝は次第に弱体化し、パリ伯の力が増大した[3]。
885年、パリはデンマークのヴァイキングによる700隻の船と30,000人の兵による大軍に直面し、人々はアンジュー伯のロバートと、その息子であるパリ伯のウード1世に助けを求めた。ウード1世は、ヴァイキングによる10ヶ月間の包囲攻撃に対抗して街を防衛し、西フランク王国のシャルル3世と共に、帝国の共同統治者となった。987年、彼の大甥であるユーグ・カペーはフランス(FranceまたはFrancia:語源は「フランク人の土地」)の国王に選ばれた。ユーグ・カペーはパリを首都とし、カペー朝を創始した。
中世と近代初期
カペー朝1180年1223年1422年から1589年までの発展詳細は「カペー朝」を参照
当初、フランス国王は、パリとその周辺のイル=ド=フランス地方のみを統治していたが、次第にその領土と力を拡大した。パリは帝国の首都、学術の拠点、そして教会の拠点として重要性を増した。
12世紀にはすでに、パリの特徴が明白に現れていた。1163年にノートルダム大聖堂が作られたシテ島は政治と宗教生活の中心、左岸(セーヌ川の南側)は教会が運営する様々な学校が置かれた学術の中心であり、右岸(セーヌ川の北側)は商業と経済の中心であった。また、ハンス・パリジャン (Hanse parisienne) と呼ばれた商業組合が設立され、急速に力を持つようになった。
1180年からのフィリップ2世の治世下で、多くの建築事業が行われた[4]。新たな市壁が建設され、ルーブル宮殿の建設が始まり、道路の舗装、パリ中心部のレ・アールへの中央市場の建設(この市場はその後、1969年まで存続)がなされた[4]。