この項目では、ローマの丘について説明しています。ヘルマン・ツァップデザインの書体については「Palatino (書体)」をご覧ください。
パラティヌス
Palatinus
(Palatino)
キルクス・マクシムスから見たパラティヌスの丘
所在地古代ローマ, 首都ローマ
建設時期紀元前8世紀 ? 後5世紀
建設者王政ローマ, 共和政ローマ, 帝政ローマ
建築様式王族、貴族、皇帝の邸宅
関連項目ローマの古代遺跡一覧
パラティーノ(ラテン語: Palatinus, パラティヌス、イタリア語: Palatino)、パラティーノの丘(ラテン語: Mons Palatinus モンス・パラティヌス)は、ローマの七丘のうちの一つ。最も歴史が古いといわれている。
パラティヌスの丘には、パラティウム(Palatium)とケルマヌス(Cermalus)の二つの頂があるが、紀元前3世紀頃以降は、パラティウムはパラティヌスの丘全体のことを指すようになる[1]。
フォルム・ロマヌムとキルクス・マクシムス(大競技場)の間にある。古代にはローマ建国の英雄ロムルスとレムスがかつて住んだとされ、その後貴族の邸宅が建てられ、のちに初代皇帝アウグストゥスを筆頭に歴代の皇帝の宮殿が建てられたため、イタリア語や英語で宮殿(Palazzo, Palace)を意味する語の語源となった。 ローマ神話によれば、軍神マルスとレア・シルウィア(アルバ・ロンガの王ヌミトルの娘)の間に双子ロームルスとレムスが生まれたとされている。王の末弟のアムリウスは王位を奪っていたが、兄の孫である双子の復讐を恐れて、双子をテヴェレ川に捨てた。双子は狼に拾われ、ここパラティヌスにあった洞窟で育てられた。そのため、この洞窟があった場所はルペルカル(ラテン語: Lupercal, 狼=Lupaが語源)とも呼ばれる。やがて豚飼いのファウストゥルスに保護され、その妻アッカ・ラレンティア
建国神話
パラティヌスで起こった神話上の出来事は他にもあり、ヘラクレスがゲーリュオーンの牛の群を連れてギリシアに帰る途中この地を訪れ、牛を盗まれたためカークスを倒したといわれる場所である。その戦いのときにヘラクレスの棍棒で穿たれた割れ目が、パラティヌスの丘の南東に残っているという。 発掘調査によれば、紀元前1000年頃にはパラティヌスに人が居住した痕跡が見つかっている。古代ローマの歴史家リウィウスによれば、(ローマ建国前のこと)サビニ人とアルバ人がローマに移住してきた時に、もともとここに住んでいたローマ人はパラティヌスに移り住むようになったとされる。共和政ローマ期(紀元前6世紀?紀元前1世紀)には、貴族など裕福な人々がパラティヌスに住まいを構えるようになる。帝政ローマ期(紀元前後?)、この地区は皇帝が住む宮殿が建ち並ぶ地区となる。ティベリウス帝(在位 14年-37年)が造営したドムス・ティベリアナ アウグストゥス帝の妃リウィア・ドルシッラの宮廷とみられているドムス・リウィアエ
歴史
概要
パラティヌスの丘の中央付近を占めるのはドムス・フラウィアの建物群で、ウェスパシアヌス、ティトゥス、ドミティアヌスといったフラウィウス朝(69年-96年)の皇帝たちが整備した。また、それ以降の皇帝たちもドムス・フラウィアをキルクス・マクシムス方向に向かって増築していった。キルクス・マクシムスから望むパラティヌスの建物群は、主にセプティミウス・セウェルス帝(在位 193年-211年)が増築したもので、ドムス・セプティミ・セウェリと呼ばれる。このセプティミウス・セウェルス帝が増築した宮殿の横にはスタディオン(ドミティアヌスのヒッポドローム)と呼ばれる戦車競技場キルクスに似た施設がある。戦車競技には狭すぎるため、古代ギリシアの陸上競技会を催す競技場だと推測する説もあるが、実際の利用方法は不明である。また、競技場の形をした庭園であったとする説もある。
現在、パラティヌスの遺跡群は、フォルム・ロマヌムとフラウィウス円形闘技場(コロッセウム)と一体となった広大な屋外博物館として一般公開されており、同一の入場券で見学可能である。 パラティーノ
平面図123456789ABCDE
1:ドムス・ティベリアナ(イタリア語版), 2:ドムス・リウィアエ(イタリア語版), 3:ドムス・フラウィア, 4:ドムス・アウグスターナ, 5:スタディオン, 6:ドムス・セプティミ・セウェリ, 7:アポロン神殿 (パラティヌス)(イタリア語版), 8:クラウディア水道の水道橋, 9:セウェルス浴場, A:アウグストゥスの家, B:キュベレー神殿(英語版), C:ロムルスの家(英語版), D:エラガバリウム, E:ホレア・アグリッピアーナ(イタリア語版)(穀物倉庫)再現模型