パブロ・ピカソ
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「ピカソ」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ピカソ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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パブロ・ピカソ
Pablo Picasso
ピカソ(1962年)
本名パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ
Pablo Diego Jose Francisco de Paula Juan Nepomuceno Maria de los Remedios Cipriano de la Santisima Trinidad Ruiz y Picasso[1]
誕生日 (1881-10-25) 1881年10月25日
出生地 スペイン王国マラガ
死没年1973年4月8日(1973-04-08)(91歳)
死没地 フランスムージャン
墓地ヴォーヴナルグ城[2]
墓地座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯43度33分15秒 東経5度36分16秒 / 北緯43.554142度 東経5.604438度 / 43.554142; 5.604438
国籍 スペイン
配偶者

オルガ・コクローヴァ(英語版)
(m. 1918; d. 1955)

ジャクリーヌ・ロック(英語版)
(m. 1961)

運動・動向

キュビズム

シュルレアリズム

芸術分野絵画彫刻版画陶芸舞台美術、著作
教育

ホセ・ルイス・ブラスコ (父)

王立サン・フェルナンド美術アカデミー

代表作『花のバスケットを持つ裸の少女』、『アビニヨンの娘たち』、『ゲルニカ』、『泣く女』『
影響を受けた
芸術家

ディエゴ・ベラスケス

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック

ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ

エル・グレコ

ポール・セザンヌ

影響を与えた
芸術家

マリー・ローランサン

フェルナン・レジェ

ジャクソン・ポロック

岡本太郎

ほか多数

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ピカソのサインピカソ(1908年)

パブロ・ルイス・ピカソ[注 1][注 2](Pablo Ruiz Picasso, 1881年10月25日 - 1973年4月8日)は、スペインマラガ生まれの、フランスで制作活動をおこなった画家である。
生涯ピカソの生まれたマラガの家ピカソと妹のローラ、1889年
生い立ち

パブロ・ルイス・ピカソは、1881年10月25日の23時15分に、スペイン南部アンダルシア地方マラガ市で生まれた。父ホセ・ルイス・イ・ブラスコ(1838年-1913年)と母マリア・ピカソ・ロペス(1855?1938)との間に長男として生まれた。

父ホセ・ルイスは、美術教師、修復家、美術館学芸員長、画家だった[5]。1880年にマリアと結婚している。幼いころからピカソは絵を描く才能を発揮し、8歳で初めて油彩を描いている。ピカソは子供の頃から美術の英才教育を受けた。

1891年ガリシア地方ラ・コルーニャに移住[6]。父のホセ・ルイスは、同市ダ・グワルダ工芸学校美術教師、地域の美術館の学芸員に赴任した。
美術学校へ

1892年、ラ・コルーニャの美術学校に入学[6]1894年、父、ホセ・ルイスは絵の道具を息子に譲り自らが描くことをやめる。一説に自分を凌駕している息子の才能への賞賛が原因とされる[7]

1895年バルセロナに移住、美術学校に入学。ひと月の猶予のある入学製作を1日あるいは1週間で完成させる。初期の作品は、バルセロナの小路ラ・プラタ通りのアトリエで描かれた。

1897年、父の指導のもとで描いた古典的な様式の『科学と慈愛』が、マドリードで開かれた国立美術展で入選する。佳作を受賞し、約2週間展示される。後にマラガの地方展で金賞を受賞。同年秋、マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学。だが、マドリードでも授業内容は今までと同じ古典的な内容で、新しいことや当時の流行を学ぶことができず、王立アカデミーの体制に失望する。プラド美術館に通い、ベラスケスらの名画の模写をすることで絵画の道を求めていった。

1898年、春に猩紅熱にかかりオルタ・デ・エブロ(現在のオルタデサンジョアン(英語版))で療養[7]。6月、王立サン・フェルナンド美術アカデミーを中退する。
成人後

1899年、バルセロナに戻る。バルセロナにある「四匹の猫」というカフェに通い、芸術家たちと交わりながら絵を描く。簡素ではあるが、このときに自身初の個展を開催する。ラ・バングアルディア紙で好意的に批評され、ピカソに注目が集まり始めた。バルセロナ画壇の大御所、ラモン・カザスに代わり、メニューの表紙イラストを手がけることになる。

1900年、2月1日、再びピカソの個展が開催され、アール・ヌーヴォーの影響を受けた線画が約150点が展示された。カサヘマス、パリャーレスとともにパリを初訪問。その後バルセロナとパリの間を何度か行き来する。

1901年、雑誌「若い芸術」の編集に関わる。6月、パリで個展を開く。「青の時代」の始まり。

1902年画廊であるサラ・パレースでカザスとの二人展を開催する。10月、パリで、マックス・ジャコブと共に住む。

1904年4月、詩人のマックス・ジャコブによって〈洗濯船〉と名付けられたモンマルトルの建物に部屋を借り、パリに腰を据える。


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