パナマの歴史
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パナマの歴史(パナマのれきし)では、パナマ共和国歴史について述べる。コクレ文化の亀を象った貝製ペンダント。紀元500年1300年頃。ダンバートン・オークスオクラホマ州Gilcrease博物館にあるコクレ文化(シティオ・コンテ出土)の黄金製装飾品。紀元500?1000年頃チリキ文化の黄金製ザリガニペンダント。紀元1100?1600年頃
先コロンブス期 

ヨーロッパ人の来航以前の現在のパナマの地には、主にチブチャ族をはじめとする人々が居住していた。パナマ中部、アスエロ半島北方のパリタ湾岸では紀元前2900年から同1300年に刻線文が施されたモナグリーヨ(Monagrillo)土器を伴う貝塚と内陸の岩陰洞窟遺跡が営まれた。紀元前1000年頃までにモナグリーヨ土器を伴う集落は放棄され、紀元前900年頃からモナグリーヨの系譜をひく刻線文の土器に加えて二彩土器や多彩色土器を伴うようになる。これらの土器は紀元前6世紀にもっとも盛んに用いられるようになる。この時期には、掘立柱建物の住居が集まった集落が営まれ、中心的なものとして、ムラ・サリグアが挙げられる。ムラ・サリグアは、紀元前390年ごろから、8.5haであった集落が58haにまで急速に発展し、人口は600人から700人近くにまで達したと推定される。紀元前3世紀中葉から後半の時期にはムラ・サリグアより小規模であるが、シティオ・シエラの集落が形成された。シティオ・シエラの住居跡の床面から検出された炭化物の放射性炭素年代は、65B.C.±80からA.D.235±90を示している。遺物には、炭化した多量のトウモロコシに伴い円筒形のすり石のマノと脚部が削り出されたすり皿のメタテ、砥石、磨製石斧を調整する際に発生した剥片や長方形のナイフ形石器などが出土している。住居の床面をはがすと彩色土器や石器製作のための加工用の道具のほか、貝や黄鉄鉱製の首飾りを伴う集団埋葬墓が検出された。放射性炭素年代から紀元前3世紀から延々と追葬が行われ、被葬者は25体の人骨が確認されている。この時期まで、祭祀センターとみなすことのできる遺跡は出現していない。

アスエロ半島南部での最初の居住を示すブカロ期の遺跡は、トノシ川下流域及び河口、グアンコ川の河口から南西3kmの海岸の三か所で確認されている。居住が開始された年代は不明だが下限はA.D.200年までとされる。農耕は行っていないが刻線文が施された土器や石器が出土している。これらの放射性炭素年代は、A.D.20±100年となっている。ブカロ期に続くのは、エル・インディオ期で、放射性炭素年代は、A.D.390±100及びA.D.450±100という年代が得られており、だいたいA.D.20年から同500年くらいに位置づけられる。エル・インディオ期の集落は、13か所発見されており、うち3か所はブカロ期から続いている集落である。エル・インディオ期の土器は、白地黒彩の二彩土器や黒と赤に塗色された彩文土器で斜めの格子文、十字文、ヘリンボーン(山形文)、?状文、様式化された人物文など多様な文様が施されている。石器には、穀物や木の実をすりつぶすすり石とすり皿、すなわちマノとメタテが現れ、農耕が始まっていた可能性が強い。金属器も作られており、墓には土器や金属器などが副葬されたものも現れた。エル・インディオ期の土器はトノシ土器とも呼ばれ、コクレ地方や西のベラグアス地方からも出土する。

A.D.500頃には、パナマ中央部のパリタ湾岸では階層社会が形成されていたと考えられ、サミュエル・ラスラップが1930-33年に調査したコクレ(Cocle)文化の代表的な遺跡であるシティオ・コンテ(Sitio Conte)が好例として挙げられる。シティオ・コンテでは、副葬品として多量の製品をはじめ、石製装飾品、コンテ多彩色土器などを伴う墓が確認されている。最古の墓である埋葬1号と32号はA.D.400年から同500年のものであり、A.D.900年までの埋葬が確認されている。金製品については、研究者の立場は、コロンビアシヌー文化の影響によるものという伝播論の立場と、コンテ多彩色土器やパナマ中部の多彩色土器の文様である「羽根を広げたワシ」に類似した文様がみられることから在地発展論の立場と二通りの見解にわかれている。また、コスタリカ東部のディキス(Diquis)地方に隣接するパナマ西部のチリキ(Chiriqui)文化では、素晴らしい彩文土器や土偶を伴う文化が繁栄し、チリキの東方、パリタ湾岸の西方に位置するベラグアス地方では、ディキス地方の影響を受けた金製品や彩文土器が独特の竪坑墓(shaft-and-Chamber tomb)から出土する。コクレ・スタイルに続くエレーラ(Herrera)・スタイルは、雷文や渦巻き文などの幾何学文様が施された壺で知られている。
スペイン植民地時代「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照「南の海」(太平洋)を探索するバスコ・ヌーニェス・デ・バルボア

1501年ヨーロッパ人としてはじめてスペインの探検家ロドリーゴ・デ・バスティーダスがパナマを訪れ、カリブ海側ダリエン湾のポルトベロに上陸した。翌年には、クリストバル・コロンがモスキトス湾沿岸を探検している。1508年カスティリャフェルナンド5世が、パナマをスペインの探検家ディエゴ・デ・ニクエサに与えた。その後、1513年バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア(スペイン語 Vasco Nunez de Balboa)が太平洋側に到達した(ヨーロッパ人による太平洋の「発見」)。翌1514年には総督としてペドラリアス・ダビラが派遣され、1519年にはパナマ市が建設された。

パナマにも他のアメリカ大陸の植民地と同様にアフリカから黒人奴隷が連行され、インディオは疫病と奴隷労働によって大打撃を受けたが、イスパノアメリカ植民地の交通の要衝、スペイン人の居住都市として1671年1月28日にイギリスの海賊ヘンリー・モーガンによる焼き討ちにあうまで繁栄を極めた。

1530年代、フランシスコ・ピサロはパナマを拠点にインカを征服した。また、ペルー及び近隣植民地からスペイン本国への輸送ルートは、ほとんどがパナマを経由した。例えば、ポトシ銀山のは海路で太平洋側のパナマ市まで輸送された後、陸路でカリブ海側のポルトベロまで運ばれ、そこから再び海路でスペインに送られるなど、16世紀はじめにスペインはパナマ周辺地域の支配権を確立した。後にパナマはペルー副王領の一部となり、1718年にはヌエバ・グラナダ副王領に編入された。

16世紀から17世紀には、フランシス・ドレークやヘンリー・モーガンをはじめとする英国海賊がしばしば輸送拠点を襲撃したり、搬送物を略奪する等の行為を繰り返したりした。
コロンビアとしての独立とアメリカ合衆国の関心「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照解放者シモン・ボリーバルフェルディナン・ド・レセップス

1808年に、フランス帝国ナポレオン・ボナパルトが兄のジョゼフスペイン王ホセ1世に据えると、それに反発する住民暴動から、スペイン独立戦争が勃発。インディアス植民地はホセ1世への忠誠を拒否し、独立のための戦いが始まった。ベネスエラカラカス出身の解放者シモン・ボリーバルは不屈の闘争の末に、1819年8月にボヤカの戦いに勝利してヌエバ・グラナダを解放すると、1821年にはカラボボの戦い (1821年)(英語版)に勝利し、ベネスエラの解放を不動のものにした。同年11月28日、パナマはボリーバルの主催する大コロンビアの一部としてスペインから独立した。1826年にはボリーバルの呼びかけで米州の相互防衛と将来的な統一を訴えるパナマ議会(スペイン語版、英語版)がパナマ市で開催されたが、この会議は失敗に終わった。コロンビアによる支配への不満から反乱が発生するようになった。

1830年にボリーバルが失脚してベネスエラのホセ・アンオニオ・パエスがベネスエラ共和国のグラン・コロンビアから独立を宣言すると、それまで「南部地区」と呼ばれていたキトグアヤキルクエンカエクアドル共和国として独立を宣言し、最後に残ったヌエバ・グラナダもラファエル・ウルダネータ将軍が1831年に失脚したために、ヌエバ・グラナダ共和国のグラン・コロンビアからの独立を宣言し、パナマもヌエバ・グラナダの一部として独立した。こうしてボリーバルの目指したラテンアメリカ統合の夢と共にグラン・コロンビアは崩壊し、解放者は敗北して死んだ。


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