パトリック・モディアノ
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パトリック・モディアノ
Patrick Modiano
パトリック・モディアノ (2014)
誕生(出生名) ジャン・パトリック・モディアノ
(1945-07-30) 1945年7月30日(78歳)
ブローニュ=ビヤンクール (オー=ド=セーヌ県)
フランス共和国
職業小説家, 脚本家
国籍 フランス
代表作『エトワール広場/夜のロンド』 (1968-69)
『パリ環状通り』 (1972)
『暗いブティック通り』 (1978)
『1941年。パリの尋ね人』 (1997)
『Un pedigree (血統書)』 (2005)
主な受賞歴アカデミー・フランセーズ賞 (1972)
ゴンクール賞 (1978)
オーストリア国家賞 (2012)
ノーベル文学賞 (2014)
レジオンドヌール勲章オフィシエ (2015)
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ノーベル賞受賞者
受賞年:2014年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:最も捉え難い人々の運命を召喚し、占領下の生活世界を明らかにした記憶の芸術に対して

パトリック・モディアノ (Patrick Modiano, 1945年7月30日 - ) は、フランスパリ近郊ブローニュ=ビヤンクールオー=ド=セーヌ県)生まれの作家である。

30作以上の小説を発表し、アカデミー・フランセーズ賞 (1972)、ゴンクール賞 (1978)、オーストリア国家賞 (2012) などの多くの権威ある文学賞を受賞し、2014年10月に、「最も捉え難い人々の運命を召喚し、占領下の生活世界を明らかにした記憶の芸術」であるという理由により、ノーベル文学賞を受賞した[1][2]。この際、スウェーデン・アカデミー事務局長のペーテル・エングルンド(フランス語版)は、パトリック・モディアノを「現代のマルセル・プルースト」であると評した[3][4]。彼の作品は36か国語に翻訳されている(2014年受賞時)[5][6]

2015年1月にレジオンドヌール勲章オフィシエを贈られた。モディアノ独自の作品世界・作風は「モディアネスク (modianesque)」と表現されるが[7]、レジオンドヌール勲章の授与式で、フランソワ・オランド大統領はこの言葉を「現実が消えてしまう状況、過去と現在が交錯する状況、言葉が信じられなくなる状況」と定義した[8]
経歴
生い立ち

パトリック・モディアノ(出生名:ジャン・パトリック・モディアノ)は、1945年7月30日、パリ近郊のブローニュ=ビヤンクールオー=ド=セーヌ県)に生まれた。

アントウェルペンベルギー)生まれの女優であった母ルイザ・コルパン (Louisa Colpeyn) とパリ生まれのイタリアユダヤ人の父アルベルト・モディアノ (Albert Modiano) は、1942年ナチス・ドイツ占領下のパリで出会い、1944年ムジェーヴ(フランス南東部オート=サヴォワ県)で結婚した(ただし、ユダヤ人であったアルベルトは偽名を使い、合法的な結婚ではなかった)[9][10]

パトリックが生まれたのは第二次世界大戦におけるドイツ降伏(戦勝記念日)の2か月後であった。

2年後の1947年に弟リュディが生まれたが、1957年、10歳で白血病のため他界した[9][11]。パトリック・モディアノは処女作を含む初期の7作を弟リュディに捧げており、2005年に発表した自伝小説『血統書 (Un pedigree)』でも、この本に書かれている出来事で「弟の死ほど私の心に深く刻まれているものはない」と書いている[12]

父アルベルト・モディアノは1912年パリ9区に生まれた。アルベルトの父親はギリシャの港湾都市テッサロニキに生まれたが、もともとトスカーナ地方(イタリア)のユダヤ系の家系であった[12]。彼はナチス・ドイツ占領下のパリで偽名を使って身を隠し、フランス・ゲシュタポの人物らを中心とする闇取引に関わっていた[10]。パトリック・モディアノが処女作で「ナチ占領下のパリに蠢く闇商人、ゲシュタポの手先、ユダヤ人コラボ(対独協力者)」を描いたのもこうした事情によるものであり[13]、初期の作品にはこうした父のこと、そして巡業で不在がちだった母のことが繰り返し描かれていることから、これらをフロイトの「家族小説 (Famlienroman)」の概念により論じる研究者もいる[14]。実際、モディアノ夫妻はパリ6区セーヌ川沿いのケ・ド・コンティ通りに居を構えたが、二人とも「仕事で多忙であり、パトリックとリュディは他人の手に委ねられた。パトリックが最初に預けられたのは、母方の祖父母宅であり、彼らはフラマン語しか話さなかったという」[15]

やがてパトリックはパリ西側に位置するジュイ=アン=ジョザ(イヴリーヌ県)の寄宿学校に預けられたが、反抗心からひそかに逃げ出すこともあった。彼は子供の頃はいつも「母が私を厄介払いしたいのだと感じていた」、「愛されていないと感じると逃げ出す馬のようなものだった」と語っている[16][17]モディアノ一家が住んでいたパリ6区セーヌ川沿いのケ・ド・コンティ通り (1981)

1960年から1962年まで、さらに親元を遠く離れてトーヌ(オート=サヴォワ県)の中学に通った後、パリに戻ってアンリ4世高等学校に入学した[18][19]

父アルベルトと母ルイザはケ・ド・コンティ通りの同じアパートの別の部屋に住むようになり、父親は別の女性と同居していた。パトリックが18歳の時、父にお金を無心しに行ったところ、この女性が警察を呼び、父も彼女に同調してパトリックを「不良呼ばわり」したため、警察に連行された。パトリック・モディアノはこの一件についても自伝小説『血統書』に書いており、後に「象徴的なショックだった」と語っている[20]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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