パトリック・マッカラン
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アメリカ合衆国政治家パトリック・アンソニー・マッカランPatrick Anthony McCarran
生年月日1876年8月8日
出生地 アメリカ合衆国ネバダ州リノ
没年月日1954年9月28日
死没地 アメリカ合衆国ネバダ州ホーソーン
所属政党民主党
ネバダ州選出のアメリカ合衆国上院議員
当選回数4
在任期間1933年3月4日 - 1954年9月28日
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パトリック・アンソニー・マッカラン(英:Patrick Anthony McCarran、1876年8月8日-1954年9月28日)は、アメリカ合衆国ネバダ州出身の民主党政治家であり、1933年から1954年までネバダ州選出のアメリカ合衆国上院議員を務めた。強烈な反共産主義の姿勢で注目された。
初期の経歴

マッカランはネバダ州リノアイルランド系移民の子供として生まれた。ネバダ大学リノ校に入学したが、父が怪我をして家の羊牧場の面倒を見るために退学しなければならなかった。独学で法律を学び1903年には州下院議員となり、1905年に法曹資格を得た後はナイ郡の地方検事となった(1907年-1909年)。

マッカランはネバダ州首席判事(1917年-1918年)、ネバダ州臨時入国許可理事会会長(1913年-1918年)およびネバダ州法廷検査理事会会長(1919年-1932年)も務めた。民主党員として1916年と1926年にネバダ州選出のアメリカ合衆国上院議員選挙に出馬したが落選した。1932年に3回目の出馬を行い民主党の候補指名を得た後に、共和党現職のタスカー・オディーを破って、ネバダ州では初めてのネバダ州生まれの上院議員となった。1930年代、マッカランはニューディール政策に全面的に反対した数少ない民主党議員の1人として知られるようになった。
上院議員

マッカランは、1938年の民間航空法、1945年の連邦空港法および1946年の行政手続法など、国の安全保障に関わる法案を提出した。また早期からアメリカ空軍を分離する提唱者であり、1933年には既にそのための法案を議会に提出していた[1]

マッカランはスペインフランシスコ・フランコ将軍を称賛しており、スペインに対する対外援助を増やそうとしたことで、コラムニストのドリュー・ピアソンから「マドリード選出の上院議員」ど渾名された。マッカランは他の外国指導者として中国?介石総統が好みであり、1949年に?介石が中国本土を失った時、国務省の中のソビエト・スパイのせいだと非難した。1952年、マッカランはワシントンD.C.駐在の中国国民党大使が主宰した晩餐会にジョセフ・マッカーシーおよびウィリアム・ノーランド各上院議員と共に出席し、「本土へ戻ろう!」という乾杯で食事を始めた。

第二次世界大戦後、マッカランは上院でも最も強烈な反共産主義の者として頭角を現した。上院司法委員会の委員長として、上院国内治安小委員会を創設してその初代委員長になり、フランクリン・ルーズベルトハリー・S・トルーマン各大統領の統治状況を調査した。1951年、上院国内治安小委員会の調査により、太平洋問題調査会の記録を手に入れた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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