パトリック・ジョン・ヒラリー
Patrick John Hillery(英語)
Padraig Sean O hIrighile(アイルランド語)
1986年、オランダにて
アイルランド
第6代 大統領
任期1976年12月3日 – 1990年12月2日
出生1923年5月2日
アイルランド自由国
クレア県 ミルタウン・マルベイ
パトリック・ヒラリー(英語: Patrick John "Paddy" Hillery、アイルランド語: Padraig Sean O hIrighile、1923年5月2日 - 2008年4月12日)は、アイルランドの医師、政治家。1976年から1990年まで同国の第6代大統領を務めた。
1951年の総選挙でフィアナ・フォール(共和党)から初当選し、1973年までのドイル・エアラン(下院)議員の在任中、教育相(1959年 - 1965年)や産業相(1965年 - 1966年)、労働相(1966年 - 1969年)、外相(1969年 - 1973年)を歴任した[1]。その後、1973年にアイルランドが欧州共同体(EC)に加盟すると、同国の初代欧州委員会委員となり、1976年の大統領就任まで委員を務めた。 1923年、アイルランド南西部のクレア県ミルタウン・マルベイ
生い立ち
1955年10月27日、メアリー・ビアトレス・フィネガンと結婚する。一男一女をもうけるが、娘は長期の闘病の末、18歳の誕生日を目前にした1987年に亡くなった[2]。 ヒラリー自身はまったく政治に関わりあいがなかったものの、クレア県選出のフィアナ・フォールの議員であり党首、また前の首相であったエイモン・デ・ヴァレラからの圧力もあり、1951年の総選挙の候補者となることに同意した。この選挙でフィアナ・フォールは与党に返り咲くとともに、ヒラリーも初当選を果たした。ドイル・エアラン(下院)議員となってから約10年間は平議員にとどまり、入閣を果たしたのはデ・ヴァレラが首相を退いた1959年のことだった。 デ・ヴァレラの後に首相となったショーン・リーマス 教育相としてヒラリーは多くの革新的な考えを提起し、リーマス政権でも重要なポストとなった。1963年、ヒラリーは以後10年間で展開される教育改革の多くを概説した所信表明演説を行った。その中には、総合制学校(コンペリヘンシブ・スクール)・地域技術カレッジの創設や、学生が全ての公的テストを受検できるようにするなど、より多くの者のために教育を受ける機会を増やす政策が含まれていた。ヒラリーは教育相として、自身の始めた改革と独創性が進むよう後任の大臣のために土台を築いた。ドナー・オマリーは教育の無償化を導入して高い評価を得ているが、実際にはこの画期的な発表の根底にはヒラリーの功績がある。 1965年、ヒラリーはまたもリンチの後任として産業相に就任する。当時の産業相は、アイルランド経済に弾みをつけるため最も重要なポストの一つとして考えられていた。しかし、ヒラリーは産業相に就任して1年あまりの後、労働争議による影響が出始めたため新設された労働相のポストに就いた。この新設省はリーマスの数年来の悲願であり、ヒラリーはその初代の大臣となった。1966年11月、リーマスは首相とフィアナ・フォール党首を辞任し、政友たちを落胆させた。リーマスによって後任の党首への就任を薦められたが、ヒラリーはこれを固辞した。多くの歴史家たちは、リーマスが後継者として最初に選んだ人物はヒラリーであると考えているが、ジャック・リンチ、ヒラリー、ジョージ・コリー
下院議員
入閣まで
閣僚時代
1969年に行われた総選挙でフィアナ・フォールが勝利すると、ヒラリーは外相に就任した。1972年1月30日、北アイルランドのデリーでイギリス軍のパラシュート連隊によって市民が銃撃され、このうち13人が死亡するという事件(「血の日曜日事件」と呼ばれる)が発生した。ヒラリーはこの直後、国際連合が平和維持に関与するよう求めるためニューヨークの国連本部を訪ね、世界的に知られるようになった。