パトリシア・ニール
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パトリシア・ニール
Patricia Neal
1952年に撮影された宣材写真
本名Patsy Louise Neal
生年月日 (1926-01-20) 1926年1月20日
没年月日 (2010-08-08) 2010年8月8日(84歳没)
出生地 アメリカ合衆国テネシー州ノックスビル
職業女優
配偶者ロアルド・ダール (1953年 ? 1983年)

 受賞
アカデミー賞
主演女優賞
1963年ハッド
ニューヨーク映画批評家協会賞
主演女優賞
1963年『ハッド』
英国アカデミー賞
外国女優賞
1963年『ハッド』
1965年危険な道
ゴールデングローブ賞
主演女優賞(ドラマシリーズ部門)
1972年『父の帰る日』
その他の賞

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パトリシア・ニールとロアルド・ダール(1954年)photo: Carl Van Vechten

パトリシア・ニール(Patricia Neal、本名:Patsy Louise Neal、1926年1月20日 - 2010年8月8日)は、アメリカ合衆国女優
来歴

ケンタッキー州で生まれ、テネシー州ノックスビルで育つ。ノックスビル高校卒業[1]

ノースウェスタン大学でスピーチと演技を学んだ後にブロードウェイの舞台で活躍する。1947年には"Another Part of the Forest"でトニー賞を受賞した[2]。その翌年に映画デビュー。

1949年の『摩天楼』でゲイリー・クーパーと共演する。2人は2年前から不倫の関係にあり、それが明るみに出て大きなスキャンダルに巻き込まれた。ニールは妊娠したものの、クーパーの妻はカトリック教徒であるため離婚に応じず、子供を中絶せざるをえなかった[3]。結婚後にスキャンダルらしいものがなかったクーパーには家庭的な良い夫のイメージができあがっていたため「クーパーを誘惑した年下の女(当時クーパーが46歳、ニールは21歳)」として、ニールはマスコミから袋だたきにあった。2人は結果的に別れ、ニール自身も落ち込み、仕事も干されたという。そんなときに、彼女を駆け出し時代から可愛がってきた劇作家リリアン・ヘルマンの紹介により、作家のロアルド・ダールと出会い、1953年にニューヨークで結婚、その後5人の子をもうけた。

1957年に『群衆の中の一つの顔』でハリウッドに復帰する。ポール・ニューマンと共演した1962年の『ハッド』でアカデミー主演女優賞を受賞した。その際の記者会見では、昔クーパーからプレゼントされたという毛皮のコートを着て現れた。クーパーが亡くなったときにコメントを求められ、「彼は私の愛です。」(He is my love.)と語っており、クーパーとの恋愛を大切にしていることが窺える。

1960年12月、生後4か月の長男テオが交通事故で脳に障害を負う。1962年11月には長女オリヴィア(当時7歳)を麻疹脳炎で亡くす。

1965年、5番目の子ルーシーを妊娠中に脳卒中に見舞われ、一時は歩くことも喋ることもできなくなってしまう。彼女の固い意志と懸命なリハビリのおかげで、無事に出産し回復する。『卒業』(1967年)のミセス・ロビンソン役の申し出があったが、回復間もないこともあって断った。しかし1968年の"The Subject Was Roses"(日本未公開)で再びアカデミー賞にノミネートされた。彼女のリハビリを支えた夫のダールとは、彼の度重なる浮気を理由に、30年の結婚生活を経て1983年に離婚している[4]。2010年、肺癌が原因で死去[5]

日本では1990年に、彼女の自伝『真実 パトリシア・ニール自伝』が新潮社から刊行されている(現在は絶版)。この自伝の結びには「自分の愛した男性はゲイリー・クーパーただ一人だった」と記されている。

次女で作家のテッサ・ダールの娘で、孫娘にあたるソフィー・ダール(父親は俳優スタンリー・ホロウェイの息子ジュリアン・ホロウェイ)はモデルとなった。
主な出演作品

公開年邦題
原題役名備考
1948恋の乱戦
John Loves Maryメアリー
1949
摩天楼
The Fountainheadドミニク・フランコン
命ある限り
The Hasty Heartシスター・パーカー
1950燃えつきた欲望
Bright Leafマーガレット・ジェーン・シングルトン
破局
The Breaking Pointレオナ・チャールズ
三人の秘密


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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