パティ・ダーバンヴィル
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パティ・ダーバンヴィル
Patti D'Arbanville
ニョーヨークシティにて(2007年)
本名パトリシア・ダーバンヴィル
Patricia D'Arbanville
生年月日 (1951-05-25) 1951年5月25日(72歳)
出生地 アメリカ合衆国・ニューヨーク州マンハッタン
身長162.5cm
職業モデル、俳優
活動期間1964年 - 現在
配偶者ロジェ・ミルモン(1975-1980)
スティーブ・カリー(1980-1981)
テリー・クイン(1993-2002)
著名な家族ドン・ジョンソン(非婚配偶者)
ジェシー・ジョンソン(ジョンソンとの間に生まれた息子)
主な作品
メーン・イベント
タイム・アフター・タイム
ザ・ファン
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パティ・ダーバンヴィル(Patti D'Arbanville 1951年5月25日 - )はアメリカ合衆国出身の俳優、元モデル[1][2]
略歴
幼少期?デビュー

1951年、マンハッタングリニッジ・ヴィレッジの近くで生まれたパティは3歳で早くも頭角を現し始めた。祖母に連れられて行ったブルーミングデールズ百貨店でたまたま開催されていた「ビューティフル・ベビー・コンテスト」に出場して優勝し、その後3年間に渡ってアイボリー石鹸のテレビコマーシャルに出演した。  

8歳のとき、自宅近くの歩道にチョークで落書きをして遊んでいたところ、たまたま通りかかったニューヨーク大学の学生たちの目に留まり自主映画の主役にスカウトされた。近くにいた母親の承諾を得て”Tuesday and Blue Silk” でスクリーンデビューした[3]

13歳になると自宅の向いにあったル・カフェ・フィガロ[4]でレコード盤を交換するDJのアルバイトを始めたが、深夜まで働いては授業中に寝るという生活を続けるうちに、勉学は必要ないと考えるようになり14歳で学校に通うのを止めた。

カフェ・フィガロの常連客にはボブ・ディランや作家のジャック・ケルアックなど多くの著名人がいた。16歳のある日、パティが客の大人たちとチェスをしていると、髪を真っ赤に染めた男と頭の上にリスを乗せたような髪型の男が近付いてきて「映画に出てみないか?」と声を掛けてきた。赤い髪の男はアンディ・ウォーホルであった[5]。2人は母親の許可を得ようとしたが、断られると思ったパティは独断で出演を決めた。

1年後、ウォーホールがプロデュースしポール・モリセイが監督する「フレッシュ」(1968)が完成。同性愛者のラブシーンなど新人女優としてはリスクの高い演技を要求されるも彼女は堂々と演じた。
モデル時代

この頃パティはパーク・アベニュー沿いにあるマックスズ・カンザス・シティMax’s Kansas Cityの常連客になっていた。昼はレストラン、夕方からナイトクラブになるこの店にはニューヨークで活躍する有名アーティストも数多く訪れており、ここで次に彼女を見出したのはファッションイラストレーターのアントニオ・ロペスだった。既に女優のジェシカ・ラングやスーパーモデルのジェリー・ホール、グレイス・ジョーンズなどを発掘していたロペスは、作品のモデルになって欲しいと彼女に声を掛けた。さらに有名写真家を呼んで写真を撮らせ、大手モデル事務所のウィルヘルミーナ・モデルズに紹介した。

1968年、17歳のパティはウィルヘルミーナの専属モデルに選ばれた。このときの身長は162センチ。母親が180センチ近くあったのでこれから成長するのだろうと本人も事務所も楽観的に考えていたのだが、以後ほとんど伸びることはなく、ウィルヘルミーナで最も背が低いモデルの記録保持者となった。

事務所はこの新人モデルを西ヨーロッパに派遣した[6]。パリとロンドンを中心に活動を始めたパティは、フランス、イギリス、西ドイツ、イタリアなどで人気モデルとなった。

仕事でロンドンを訪れた際、郊外の屋敷で開かれるミュージシャンたちのパーティーに招待され、ここでキャット・スティ?ブンスと出会い交際を始めた。このパーティーにはビートルズ(の誰か1人らしい)、スティーヴ・ウィンウッドジンジャー・ベイカーエリック・クラプトンらも参加していたという[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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