パッラーディオ建築
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重ね合わされたポルティコのあるヴィラ、パッラーディオの『建築四書』第4巻より、英訳版は1736年にロンドンで出版パッラーディオ設計のヴィラ・ロトンダの設計案。この図面の特徴はその後の時代にヨーロッパ中の多くのパッラーディオ建築家屋に取り入れられるようになった

パッラーディオ建築(パッラーディオけんちく、パラディオとも、: Palladian architecture)は、ヨーロッパの建築様式の一つで、ヴェネツィア建築家アンドレーア・パッラーディオ1508年-1580年)の作品から派生した。今日パッラーディオ建築として考えられているものは、彼の対称性や遠近法への理念と、ギリシャ・ローマの古典建築の伝統の原理から発展したものである。17世紀18世紀のあいだ、パッラーディオによるこの古典建築の解釈はイギリスでパッラーディオ主義(Palladianism)として知られる様式へと発展した。

パッラーディオ主義は、イニゴ・ジョーンズによるイギリス初のパッラーディオ建築といわれるグリニッジのクイーンズ・ハウスによって17世紀初頭イギリスに現れた。その開花時期はイングランド内戦の勃発や、それに続いた緊縮財政の押し付けによって短命に終わった。18世紀初期、その流行はイングランドだけでなく、その影響を直接受けたプロイセンでも復活した。ヴェネツィアのフランチェスコ・アルガロッティ伯爵(1712年-1764年)がベルリンからバーリントン伯爵1694年-1753年)に宛てて手紙を書き、バーリントン伯爵がイングランドで採用した建築様式を、プロイセンのフリードリヒ大王1712年-1786年)に採用を勧めていると記した可能性がある[1]。しかし、ウンター・デン・リンデンにあるノーベルスドルフ設計のオペラハウスは、コーレン・キャンベル (1676年-1729年) のワンステッド・ハウスに基づき、1741年から建設されていた。18世紀の後半、この様式がヨーロッパでの人気を失くしたとき、北アメリカのイギリス植民地全体で人気が急上昇することとなり、サウスカロライナのドレイトン・ホール、ロードアイランドニューポートのレッドウッド図書館、ニューヨーク市のモリス・ジュメル邸、メリーランドアナポリスのハモンド・ハーウッド邸、およびバージニアトマス・ジェファーソンモンティチェロとポプラ・フォレストなど、建築例が脚光を浴びた[2]

この建築様式は19世紀から20世紀初めにかけてヨーロッパで人気を博し続け、公共や地方政府の建物デザインに採用されることが多かった。19世紀の後半からは、オーガスタス・ピュージン1812年-1852年)に代表されるゴシック・リヴァイヴァル建築と競うようになっていた。ピュージンはパッラーディオ建築が古代の寺院に起源をもつことを思い出させ、それがプロテスタントやイギリス系カトリックの礼拝にはあまりに異端的であると考えた[3]。しかし、建築様式としてパッラーディオ建築は人気を保ち変革を続けてきた。そのペディメント、対称性、調和比例は、今日の多くの建築物のデザインにも明らかに使われている。
パッラーディオの建築パッラーディオによるヴィラ・ゴディの「真のパッラーディオ主義」、『建築四書』より。左右に伸びるウィングは農業の建物であり、ヴィラの一部ではない。18世紀、パッラーディオ主義の重要な部分となった。下のウォバーン・アビーの写真も参照

パッラーディオが全体を設計した建物は全てヴェネツィア、あるいはヴェネト州にあり、特に「パッラーディオの都市」と案内書にもうたわれるヴィチェンツァには豊富な邸宅群がある。その中にはヴィラや、ヴェネツィアのレデントーレ教会のような教会がある。パッラーディオは彼の建築に関する論文の中で、ローマの建築家ウィトルウィウス (紀元前80年頃-紀元前15年以降) や、15世紀になってからのその信奉者レオン・バッティスタ・アルベルティ1404年-1472年)によって定義された原則に従っていた。アルベルティはルネサンス期の特徴でもある装飾過多なものよりも、数値的比に基づく古典的ローマ建築の原則に固執していた[4]

パッラーディオはヴィラを設計するときには常に、その立地に合わせていた。ヴィラ・カプラのように丘の上にある場合は、ファサードを四面とも同様に設計して、居住者があらゆる方向に素晴らしい眺めを満喫できるようにすることが多かった。またそのような場合にはポルチコが全面に造られて、居住者は太陽から守られながら周りの景色を十分に楽しめるようになっており、今日多くのアメリカンスタイルのポーチに見られるものに似ている。パッラーディオはポルチコに代わるものとしてロッジアを使うこともあった。これは極く単純に中断されたポルチコと表現することもでき、あるいは内部の1階分の部屋が要素に対して開かれている貫通された壁があるものとも言うことができる。時としてロッジアは、下のロッジアの頂部の上の二階部分に置かれることもあり、ダブル・ロッジアと呼ばれるものを創り出している。ロッジアはペディメントが載ったファサードでは重要な意味を与えられることもある。ヴィラ・ゴディはポルチコよりもロッジアに重点が置かれ、そのロッジアが母屋の各端で終わっていることも重要である[5]

パッラーディオはそのヴィラの立面に古代ローマの神殿のファサードをモデルにすることが多かった。この神殿の影響は十字型のデザインに表されることが多く、後には彼の作品のトレードマークになった。パッラーディオのヴィラは通常3階建てで建てられた。田舎風の地階あるいは地上階にはサービスルームや小さな部屋が配された。その上はピアノ・ノビーレであり、ポルチコを通って一続きの外部階段を上がり、主要な応接室や寝室があった。その上には低い中二階が乗り、二次的な寝室や宿泊設備があった。ヴィラ内の各室の比率は、3対4あるいは4対5など単純な数値比で計算された。1つの家の中の異なる部屋はこれらの比で相互に関連付けられた。初期の建築家は一つの対称的なファサードを平衡させるためにこれらの形を使ったが、パッラーディオの設計は通常四角なヴィラ全体に関連付けられていた[5]

パッラーディオは農家としても、裕福な商人のオーナーが週末を過ごす宮殿のような建物としても、そのヴィラの二重の用途を深く考えていた。これら対称的で神殿のような家屋は平等に対称だったが、母屋とは離して、馬、農場の家畜、農産物を容れる低いウィングがあった。このウィングはコロネードでヴィラに付設あるいは繋がれていることがあり、機能的であるだけでなく、ヴィラにアクセントを与えるものとしてデザインされた。しかし、如何なる場合にも母屋の一部ではないという考えであり、18世紀にパッラーディオの追随者達が建物の一体的部分となるように採用したのがこのウィングのデザインと用途となっている[6]
パッラーディオ風窓クレイドンハウス (英語版) 、1757年着工、中央柱間のパッラーディオ風窓が求心力のあるブラインドアーチで囲まれている。この家は広大なパッラーディオ家屋側面のウィング2つの1つとして意図されており、計画全体が完成することはなかった

パッラーディオ風、セルリオ風、あるいはヴェネツィア風窓は大半がパッラーディオの作品であり、その初期経歴のほとんどトレードマークと言っていいものである。中央の窓は半円のアーチが載り、小さなエンタブラチュアで構成されるインポストの上に乗り、その下には他に2つの窓を囲んで、両横に1つずつ付柱がある。ヤーコポ・サンソヴィーノ1486年-1570年)はヴェネツィアの図書館で2本の内部付柱の代わりに柱を立てる設計を行った。その起源をパッラーディオであるかヴェネツィアであるかを言うのは正確ではない。そのモチーフはドナト・ブラマンテ1444年-1514年)が初めて使い[7]、後にセバスティアーノ・セルリオ1475年-1554年)がその7巻本の建築書『建築七書』に言及し、ウィトルウィウスやローマ建築の概念を詳述している。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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