パッツィー・クライン
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パッツィー・クライン
Patsy Cline

基本情報
出生名Virginia Patterson Hensley
別名Ginny, Patsy
生誕 (1932-09-08) 1932年9月8日
出身地 アメリカ合衆国ウィンチェスター (バージニア州)
死没1963年3月5日(1963-03-05)(30歳)
職業シンガーソングライター
担当楽器ボーカルピアノ
活動期間1947?1963
レーベル4スターレコード (1955?1960)
デッカ・レコード (1960?1963)
公式サイトキティ・ウェルズジミー・ディーンスキータ・デイヴィスブレンダ・リーロレッタ・リン

パッツィー・クライン(Patsy Cline、1932年9月8日 - 1963年3月5日)は、アメリカ合衆国カントリー・ミュージック歌手

本名:バージニア・パターソン・ヘンスリー(Virginia Patterson Hensley)。1960年代初頭のナッシュビル・サウンドの一端を担い、ポップ・ミュージックとのクロスオーバーに成功。30歳の頃、キャリアの絶頂期にプライベート航空機の事故により死去。20世紀で最も影響力があり、成功し賞賛を受けた歌手の1人である[1][2]

豊かな音色、感情豊かな表現力、力強いアルト[3]、カントリー・ミュージック業界の先駆者として知られる。また彼女はこのジャンルの女性歌手の地位を築いたとされる。さらに彼女の曲は様々なジャンルの歌手から刺激を受けているとされる[4]。書籍、映画、ドキュメンタリー、記事、舞台などで彼女の人生およびキャリアが描かれている。

彼女のヒット曲は1957年のドン・ヘクトの『Walkin' After Midnight 』に始まり、ハーラン・ハワードの『I Fall to Pieces 』、ハンク・コクランの『She's Got You 』、ウィリー・ネルソンの『Crazy 』と続き、1963年、ドン・ギブソンの『Sweet Dreams 』が最後となった。

彼女の死後もなお、何百万もの売り上げを伸ばし続けている。様々な賞や称賛を得ており、ジョニー・キャッシュエルヴィス・プレスリーなどと同様なアイコンとして見る向きもある。彼女の死から10年後の1973年、カントリー・ミュージック殿堂入りした初の女性ソロ・アーティストとなった。1999年、VH1の特別番組『The 100 Greatest Women in Rock and Roll 』でロック業界関係者やアーティストによる投票で第11位となった[5]。2002年、CMTの『The 40 Greatest Women of Country Music 』のカントリー・ミュージック・アーティストおよび業界関係者による投票で第1位となり、『ローリング・ストーン』誌の「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第46位となった[6]。1973年のカントリー・ミュージック殿堂の額によると「古さを感じさせない彼女の遺作は彼女の芸術的才能の証しである」。
来歴
幼少時代

1932年、バージニア州ウィンチェスターで43歳の鍛冶屋の父サム・ヘンスリーと16歳の裁縫師の母ヒルダ・パターソン・ヘンスリーのもとにヴァージニア・パターソン・ヘンスリーとして生まれた。すぐに弟サミュエルと妹シルヴィアが生まれ、パッツィはギニー、弟はジョン、妹はシスと呼ばれた。パッツィが8歳の時にウィンチェスターに落ち着くまで何度か転居を繰り返した。彼女はいわゆる貧困地区で育った。1947年、父は家族を残して去るが、一家はとても幸せに暮らしていたとされる[7]ヴァージニア州ウィンチェスターのパッツィ・クライン邸。16歳から21歳までここで過ごした。

まだ幼少の頃に音楽に触れ、教会で母親と共に歌っていた。ケイ・スター、ジョー・スタフォード、ハンク・ウィリアムズジュディ・ガーランドシャーリー・テンプルなどのファンであった。絶対音感があり、独学で歌を学び、楽譜が読めなかった。

13歳の頃、咽喉感染症とリウマチ熱で入院。「熱で喉がやられ、治った時にはケイト・スミスのような響く声になっていた」[8]
10代の頃

父親が家を出た後、家計を助けるためにジョン・ハンドリー高等学校を中退し、昼間はその向かい側にあったトライアングル・ダイナー[9]でソーダの売り子やウェイトレスをするなど様々な仕事を経験した。

地元のラジオ局のスタジオを窓を通して見たりしていたが、WINC-AM のディスクジョッキーでタレント・コーディネーターのジミー・マッコイに彼の番組で歌わせてもらえないかどうか尋ねた。1947年、ラジオに初出演し好評を得た。これをきっかけに、彼女のデザインでフリンジ付きのウェスタンの母の手作りの衣装を着て地元のナイトクラブで歌うようになった。

彼女はウィンチェスターだけでなく近隣3州に亘り様々なタレント・ショーに出演するようになった。地元ラジオ局への出演機会が増え、多くの支持を得た。1954年、若きカントリー・スターのジミー・ディーンは彼女の評判を知り、バージニア州アーリントン郡のラジオ局WARL-AM で平日昼間に生放送されるコニー・B・ゲイのラジオ番組『Town and Country Jamboree 』に独自の判断で彼女を一緒にレギュラー出演できるようにした。
プライベート
1回目の結婚

1953年9月19日、請負業者のジェラルド・クラインと結婚し、1957年7月4日、離婚。年齢の差、彼女のプロ歌手への情熱と彼の古い慣習に則し専業主婦になってほしいという意見の差異によるものとしている。2人には子供はいない。
2回目の結婚

1957年9月15日、ライノタイプ・オペレーターのチャーリー・ディックと結婚。1958年8月25日、ジュリー・ディックを、1961年2月28日、ランディ・ディックを出産。
音楽活動
フォー・スター・レコード

彼女の2番目のマネージャーのビル・ピアは彼女のミドル・ネームであり彼女の母親の旧姓であるパターソンからパッツィと名付けた。1955年、当時彼が提携していたフォー・スター・レコードと契約。フォー・スターはデッカ・レコードの子会社のコーラル・レコードと契約していた。3年後、デッカと契約。

当初の契約ではフォー・スターの作曲家にのみ曲を書いてもらうことができた。彼女はこの契約を後悔するが誰も彼女に同意しなかった。フォー・スターでの彼女の最初のレコードは『A Church, A Courtroom & Then Good-Bye 』であまり注目されなかったが、これにより『グランド・オール・オープリー』に出演することができた。オープリーはレコードとしての仕事ではなかったため、契約に違反することなく彼女の歌いたい曲を歌うことができた。これにより抑圧されてきた気持ちも幾分か緩和された。

1955年から1957年、『Fingerprints 』、『Pick Me Up On Your Way Down 』、『Don't Ever Leave Me Again 』、『A Stranger In My Arms 』などのホンキートンクを録音した。うち後者2曲は彼女も作曲に参加した。どの曲もそれほどの成功はせず、ロカビリーに挑戦することにした。

デッカ・レコードのプロデューサーであるオウエン・ブラッドリーによると、フォー・スターの作曲家達は彼女の将来性を予見していた。ブラッドリーは彼女の声はポップ・ミュージックにとてもよく合うと思っていたが、ピアやフォー・スターのプロデューサー達同様彼女は契約にあるようにカントリー・ミュージックしか録音しないと主張した。何度も彼女に、代表曲になるであろうトーチ・ソングを歌わせようとしたが、カントリーに使用されるバンジョースティール・ギターがないと彼女は歌えなかった。


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