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パックインミュージック
放送期間1967年7月31日 - 1982年7月31日
放送時間#放送時間を参照。
放送局TBSラジオ
ネットワークJRN系列
パーソナリティ#パーソナリティを参照。
提供日産自動車→松下電器→複数社→TDK→複数社
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『パックインミュージック』(Puck In Music)は、1967年7月31日から1982年7月31日まで、TBSラジオをキーステーションに、JRN系列各局で放送されていた深夜放送ラジオ番組。愛称はパック。 1960年代当時、ニッポン放送が東京地区のラジオ局に先駆けて1963年から、ラジオ関東(現在:アール・エフ・ラジオ日本)が1966年に、さらに、文化放送も1967年4月から終夜放送をそれぞれ実施していた。一方、東京地区で最初に開局したラジオ局である老舗という立場のTBSラジオは、終夜放送を行っておらず出遅れていた[1]中、1967年8月1日未明(7月31日深夜)から終夜放送を行うことになった[1]。 1967年春、当時のラジオ局制作現業部に「深夜というラジオのフロンティアに魅力ある番組を開発せよ」という指示が下り、制作現業部の副部長と6人のディレクターからなる企画検討のプロジェクトチームが発足した[1]。やがてプロジェクトチーム内で、企画の話し合いが重ねられたものの、6人のディレクターの考えはかけ離れたものとなった[1]。それでも放送開始日が迫る中で、6人のディレクターのうちの1人・武本宏一が副部長から「企画案をまとめろ。そして企画書を書け」という指示を受け[1]、最終的に『パック』と題された企画書を書き上げた[1]。タイトルは後に『パックインミュージック』に改められ、1967年8月1日未明にスタートした[1]。番組タイトルにある「パック(Puck)」は、ウィリアム・シェイクスピア作の喜劇形式の戯曲『真夏の夜の夢』に登場する森に住む妖精である。真夜中に現れて人々に娯楽を振り撒く魔法をかけ、朝になると姿を消すというキャラクターであり、これが番組のイメージに合っているということから、武本が「深夜にリスナーを魅了する、妖精の様な番組であって欲しい」との思いで名付けた。また、放送開始当初は番組キャラクターとしても「パック」が存在し(声を務めたのは喜多道枝)、毎日サウンドステッカーとして登場した[2]。 1969年2月25日、TBSは当時のラジオ本部ラジオ局の機構改革と同時に人事異動を行い、『パックインミュージック』の番組制作チームは、新しく設けられた制作第二部に所属することになった[3]。この時、パックは金曜日の『ナチ・チャコパック』以外の曜日は低迷していて、1969年4月改編をもって、テコ入れを図った[4]。その中で、木曜日担当として北山修がフォークシンガーとしては初めてラジオの深夜番組のパーソナリティを務めた[5]。1969年からは、番組の会報誌「パック・ニュース」を刊行した。 また、この時期には深夜放送ブームが到来しており、ライバル番組であるニッポン放送の『オールナイトニッポン』は着実にネット局を増加させ、逆にパックは関東ローカルの番組に成り下がっていた[6]。そんな中で、1969年5月から、午前3時10分を境に第2部制が設けられることになったが、この第2部には、地方局がネットしやすいように、TBSではCMなしの放送となった(地方局側ではCMを流す時間の間に、TBSではフィラー音楽が流れていた)[7]。それに第2部のパーソナリティには、予算の関係からTBSアナウンサーが起用されることになった[7]。さらに、第1部と第2部の担当ディレクターは同じ人物が兼ねるという方式が取られた[8]。 1971年の秋に、放送開始当初からのスポンサーだった日産自動車が降板したことを受け、1972年4月をもって放送開始から設けられていた日曜日(土曜深夜に放送)が廃枠となり、『ヤングタウンTOKYO 桂三枝の深夜営業』が開始された[9]。1972年10月3日の放送分から綜合放送に番組制作を外部委託することになり[9]、このことがきっかけで、当時の木曜日を担当していた吉田拓郎が当時のスタッフが担当を外れるならば「オレも降りる」を言い出してしまったために、『拓郎パック』が終了してしまったという[10]。 1981年10月に裏の時間帯で文化放送『ミスDJリクエストパレード』がスタートし、そのわずか2か月後の1981年12月の聴取率調査では本番組の各曜日のシェアは『ミスDJ』に対し、金曜日の『ナチ・チャコパック』以外の4曜日で同数または下回るという結果となった(ミスDJリクエストパレード#概要節に掲載の表を参照)[11]。
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