パッカード
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この項目では、自動車メーカーについて説明しています。その他の用法については「パッカード (曖昧さ回避)」をご覧ください。
パッカード・スーパーエイト(1937年)

パッカード(Packard )はかつてアメリカ合衆国に存在した自動車メーカー。

20世紀初頭に創業、高精度・高品質を備える優れた高級車を生産し、「その価値は持ち主に訊け」"Ask the Man Who Owns One."というキャッチコピーと共に名声を得た。第二次世界大戦以前は同じくアメリカのキャデラック、ヨーロッパのロールス・ロイスデイムラーイスパノ・スイザメルセデス・ベンツなどと並び、世界を代表する名門高級車メーカーであった。

だが1930年代の不況期、中産階級向けの自動車にも進出し、却ってブランドイメージの低下を招き、更に1950年代には品質低下などの凋落を重ね、結果としてブランド・企業とも消滅の運命を辿った。
歴史
創業ウィリアム・ダウド・パッカードヘンリー・B・ジョイ

1899年に電気器具商だったジェームズ・ウォード・パッカード(James Ward Packard )とウィリアム・ダウド・パッカード(William Doud Packard )兄弟が、ジョージ・ルイス・ワイス(George Lewis Weis )と手を組んでオハイオ州ウォーレンにパッカード・アンド・ワイスを創業。暮れには第一号車となるオハイオをリリースし、同時に社名もオハイオ・オートモビル・カンパニーに改称した。

更に1902年10月2日社名をパッカード・モーターカー・カンパニーに変更、やがて鉄道業と不動産業で財を成したヘンリー・B・ジョイの支援を得て1904年に本拠をデトロイトに移す。
高級車パッカード6(1913年)パッカード12

やがて、ジョイによってアルヴァン・マコーレーが支配人に就任し経営面を取り仕切ると共に、技術部門の責任者であったジョシー・ヴィンセントが高性能のエンジンとシャーシを開発。1915年には当時ほとんど例の無かったV型12気筒エンジンを搭載した乗用車を発売し、高級車メーカーとしての名声を確固とした。その証拠として1920年代にはピアスアロー(英語版)、ピアレス(英語版)とともに高級車の3Pとして親しまれていた。

Ask the Man Who Owns One.のコピーは当時から使われ、後年に至るまで多くのパッカードの広告やカタログにこのフレーズが記されている[注 1]

1921年には大統領に就任したウォレン・ハーディングがパッカードで就任式典へと赴いている。アメリカ国内では、アル・ジョルソンルドルフ・ヴァレンティノといった映画スターやジョン・アスター、ヘンリー・ルースなどの大富豪がパッカードの愛用者となっていた。

アメリカ国外においても、ベルギーエジプトインドノルウェールーマニアサウジアラビアスウェーデンユーゴスラビアチリエルサルバドルメキシコなどで政府公用車や貴賓車として供せられた。

日本でも政府公用車として使用され、昭和戦前には皇室華族にも愛用される最高級車であった。一般にも「宮様か株屋の乗るもの」と言われ、貴賓層か、あぶく銭を得た投機家でもなければ乗ることのできない自動車と見られていた。竹久夢二による化粧品の広告コピー(1930年)にまでその車名が登場したほどで、知名度は高かった。

パッカードを日本へ初めて輸入したのは内外興業を経営していた藤原俊雄で、12気筒をシャーシで輸入してボディーは築地本願寺前の國井自動車々室製作所に発注した。
大恐慌後パッカード120

しかし1920年代中期以降、ゼネラルモーターズフォード・モーターが大衆車から高級車に至るフルラインの販売戦略をとり始め、加えて世界大恐慌によってパッカードの市場であった高級車の売り上げが落ちてきた。

これに対応する形で、パッカードでは販路を広げるため、高級車を大量生産する方向に戦略を転換し、1935年に8気筒ながら中級(中価格)カテゴリーに属するパッカード120を発売。それまでの高級感や品質の良さはそのままに価格を下げて、1月から10月までに24,995台を売り上げる成功を収めた。更に1937年には、既に中級車以下のクラスにカテゴライズされる6気筒エンジンモデルを投入し、経営の下支えを図った。

しかし、パッカードが中産階級向けの車に進出したことは、従来絶対的な高級車であった「パッカード」のブランドイメージを低下させた失策とも言われている。同時期には、他の高級車メーカーやフルラインメーカーも、在来高級車より若干下位の大量生産型廉価モデルを発売して販路拡大を図ることで市場縮小に対処したが、その多くは在来高級車と別の車名か、サブブランドとすることで、ブランドイメージの全体維持を図っていた(ゼネラルモーターズがキャデラックの下位に「ラ・サール」ブランドを新設し、フォードがリンカーンの廉価版として、イメージの全く異なる「ゼファー」を発売したのがその例である)。

ともかくも経営の維持が図られ、1941年にはハワード・ダーリンのデザインによる量販型新型車のパッカード・クリッパーを発売する。しかしアメリカの第二次世界大戦参戦により軍需生産が優先され、パッカードを含む米国内各自動車メーカーの民生用乗用車生産は、1942年でいったん中止されることになる。
大戦後
生産再開期パッカード・スーパーエイト1949年モデル(ビクトリア・コンバーチブル・クーペ)。高品質を維持したが、直列8気筒エンジンとやや鈍重なスタイリングは、当時の最新トレンドから既に一世代遅れていたパッカード・クリッパー(1947年)

第二次世界大戦中は乗用車の生産は禁止され、パッカード社は1942年2月からイギリスの航空機用エンジンロールス・ロイス マーリンをライセンス生産した。軍需工場は受注の推移により戦況が予想できたようで、大戦終結前の1945年2月には、早くも民需生産への準備を開始した。

しかし、生産設備を野外に保管していた為、(対策を施していたにもかかわらず)湿気によるダメージを受け、生産開始前に修理が必要になり、実際の生産が本格的にスタートできたのは1946年に入ってからであった。伝統的なスタイルを持った1942年型パッカードのプレス型はすべてソビエト政府に売却したため、戦後型の生産はクリッパーのみでスタートした。

ソ連独裁者として君臨していた指導者ヨシフ・スターリンはパッカードの愛用者で、対枢軸国戦略上、スターリンの機嫌を取るため、当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの仲介で、大型パッカードのプレス型がソ連に売却されたのである。これを利用し、ソ連のZIS(ジス、のちのジル)工場ではパッカードそっくりのボディを持つ高級車が生産された。

クリッパーは1947年まで生産されたが、登場時は革新的なスタイルだったクリッパーもこの頃にはさすがに古さを感じさせるようになり、1948年型では大規模なマイナーチェンジで大幅なイメージチェンジを図った。ノーズ回りにはハワード・ダーリンのデザインを残したまま、ボディサイド部分を当時流行した幅広のフラッシュサイドに近づけるアップデート措置であった。実際のデザイン作業を行ったのは、大手の名門ボディメーカーであり、1941年以来パッカードのボディ製作を請け負っていたブリッグス社である。また、このモデルからステーションワゴンとコンバーチブルが新たに加わった。

更にGMが先駆けたオートマティックトランスミッションの導入に対抗するため、1949年には自社開発のトルクコンバーター式2段AT「ウルトラマチック」を1950年モデルのオプションとして発売、フォードやクライスラーに先行した。

しかし当時、1948年下期までにはアメリカの主要メーカーのほとんどが戦後型への完全なモデルチェンジを完了しており、パッカードは遅ればせながら3年後の1951年型で戦後初めてフルモデルチェンジした。

1951年型は、パッカードにとって戦後初の全くの新型車である。ボディデザインはチーフスタイリストのジョン・ラインハートが担当した。経営面では1952年5月にジェイムス・J・ナンスが社長に就任、従来の大衆化路線を見直し、高級車としての権威を回復する路線に転換した。これを受け1953年型ではロングホイールベースモデルや、セミカスタムモデルが復活し、モデル名としてクリッパーの名称も復活した。
凋落期パッカード・クリッパー(1955年)

ビッグスリーの寡占化圧力が強まっていた1953年末、パッカードにとって非常に困難な事態が発生した。パッカード車のボディ製造を請け負っていたブリッグス社が、経営問題に乗じる形でライバルのクライスラーに買収され、パッカード車のボディの生産が出来なくなるという事態が生じたのである。交渉の結果1954年型の生産は継続されることになったが、それ以降は拒絶され、1955年型以降は他社に依頼するか自社で生産するかの選択を迫られた。パッカード社はブリッグス社の空いている工場を借り、ボディのみならず、最終組み立てもその工場で自社で行うと決定した。しかし、急ごしらえのラインで不慣れな工員に生産をさせたことが災いし、品質は低下、クレームが多発した。


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