この記事は「前掲書」・「同書」・"ibid."・"loc. cit." などの表現を用いて文献を示していますが、他の利用者の編集によって順番が入れ替わるおそれがあるためこうした参照方法は推奨されません。書誌情報の記載にはガイドラインで推奨される方法を用いてください。(2012年11月)
地中海に面したパタラの遺跡。左下に市門が、丘のそばに古代ギリシャ劇場が見える
パタラ(Patara, リュキア語: Pttara)は、小アジアのリュキア地方南西部の地中海沿いにあった古代の港湾・商業都市。アルシノエ(Arsinoe, ?ρσιν?η)と改名した時期もある。その遺跡は現在、トルコのアンタルヤ県のゲレミシュ(Gelemi?)という小さな町の近くにある。リュキア連邦の首都であった。キリスト教の聖人で、パタラの近くのミュラの主教を長年務めたミラのニコラオス(聖ニコラオス)の生まれた町でもある。 天然の良港を抱えるパタラは、アポローンの息子パタルスが建てた町という言い伝えがある[1]。北のクサントスを流れるクサントス川の河口からは60スタディア南東にあった[2]。パタラは古代にはアポローン神殿とアポローンの神託で知られる町であり、ここのアポローンはしばしばパタレウスという姓をつけて呼ばれていた[3]。ヘロドトスは、アポローンの神託は年のある時期のみに女神官によってもたらされると書き[4]、セルヴィウスによればその時期とは冬を含む6か月間であったという[5]。おそらくパタラはドーリア人がクレタ島経由で植民した地であり、アポローン信仰もドーリア人のものであった。パタラはリュキアの主要都市のひとつであり[6]、リュキアの重要な港湾都市で、後のリュキア連邦でも最大の3票を投じる権利を持つ指導的地位にある都市であった。アンフィテアトルム(円形劇場)の上からパタラの遺跡を見るアンフィテアトルム(円形劇場) パタラは、リュキアの他の都市同様、アレクサンドロス大王の軍に対して紀元前333年に降伏した。ディアドコイ戦争では、アンティゴノス1世やデメトリオス1世により占領され、最終的にはリュキアはエジプトのプトレマイオス朝に属した。ストラボンによれば、プトレマイオス2世はパタラを拡張し、姉であり妻でもあるアルシノエ2世にちなんでアルシノエという名を与えた。しかし一般には古来のパタラの名で呼ばれ続けた。 紀元前196年にはセレウコス朝のアンティオコス3世大王がリュキアに領土を拡張しパタラを征服した。その後共和政ローマとセレウコス朝の平和条約で、ローマの同盟国ロドス島によりリュキアは支配されたが、紀元前167年にパタラはリュキアの他都市同様独立を認められリュキア連邦が成立した。紀元前88年には第一次ミトリダテス戦争で、黒海沿岸のポントス王国のミトリダテス6世が小アジア全域に進出しパタラも包囲占領された。ブルータスとカッシウスがマルクス・アントニウスやオクタウィアヌスら第二回三頭政治軍と戦った際には、パタラはブルータスやカッシウスの軍により占領された。この時、近隣のクサントスは破壊されたが、パタラは難を逃れた。その後も続いていたリュキア連邦は、43年に正式にローマ帝国へと併合され、パンフィリアと合併してリュキア属州となった。 パタラは新約聖書(使徒行伝 21:1-3)では、各地を宣教中のパウロ一行がロドス島からやってきてフェニキア(ピニケ)行きの船へ乗り換えた場所として出てくる。パタラは比較的早くキリスト教化され、主な主教にパタラのメトディオス(パタラではなく同じリュキアのオリンポスの主教だったとの説もある)などがおり、4世紀から9世紀までの公会議にもパタラからの主教が出席している。
歴史