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パソコンゲーム(PCゲーム、英: PC game)はパーソナルコンピュータで動作するコンピュータゲームである。
歴史
前史詳細は「ゲームソフト#歴史」を参照
この世にパーソナルコンピュータが登場する前、つまりこの世に大型コンピュータやミニコンしかなかった時代から、エンジニアたちや大学院生たちはゲームソフトを制作して遊んでいた。 パーソナルコンピュータは、愛好家たちによって常にゲーム目的で使用されてきた。 1975年に「史上初の市販のパーソナルコンピュータ」とされるAltair 8800が登場し、1970年代後半に次々とパーソナルコンピュータの新しい機種が登場してくるとゲームソフトの数も急激に増えてゆくことになった。一例を挙げると1976年にはウォズニアックとスティーブ・ジョブズがApple Iを発売すると、2?3年のうちにそれ向けのゲームソフトとしてスタートレック(スタートレックを題材にしたシミュレーションゲーム)、ブラックジャック(カードゲーム)、人生ゲーム、チェスなど10本あまりがリリースされた[1]。翌1977年にはApple IIを発売し、そのApple II用に次々とゲームソフトが制作されてゆくことになり、最初はApple IIの開発者のウォズニアックが書いたBreak Outつまりブロックくずしなど数本だけであったが、その後はさまざまな組織が制作・発売することになり、1978年には17本前後、1979年には21本前後、1980年には25本前後といった調子で制作されていったのである(→en:List of Apple II games
1970年代後半 黎明期のパーソナルコンピュータ用のゲームソフト
Apple II用ゲームソフト、Mystery House(1980年、Siera社より発売。1987年に権利者がパブリックドメインへと移行させた。)コマンド入力させ、行動を選択させる。
Mystery Houseの室内
Apple II用ゲームソフト、『プリンス・オブ・ペルシャ』(1989年、ブローダーバンド社より発売、en:Jordan Mechner制作)
日本国内で起きたことは、1976年にNECから発売されたTK-80という8080互換CPUのトレーニング用ボードでも、表示装置は8桁の7セグメントLEDしかなかったにもかかわらず、当時のコンピュータ・マニア(マイコン愛好家)たちはそんな表示装置だけでも遊べるゲームソフトをさっそく16進数の機械語で書き始めた。さらに1977年11月にTK-80BSという拡張キットが発売されテレビ画面に表示ができBASICも動くようになると、マニアたちは文字キャラクタ(文字フォント)を画面に表示することで簡素な図を表現して遊べるゲームを次々と制作、まもなくドットつまり画面上の黒くて小さな点単位で表示を制御してゲームを制作することも行い始め、1978年に世の中でスペースインベーダーが流行り始めるとマニアたちはまもなくそれの動作原理も解析し、機械語+BASICなどでプログラムを書きTK-80BSに移植した。1978年にはシャープからMZ-80Kが発売され、同機用のゲームをマニアたちや企業などが制作し、誌面の印刷文字などで供給され一文字づつ入力したり、カセットテープの形で供給でされたりした。ゲームソフトウェアを文字入力する場合、それがどのようにユーザに届けられていたかというと、1976年には『I/O』というマイコン雑誌が創刊され、そこにコンピュータゲームのプログラムがBASICや16進数の機械語で書かれた状態で紙面に印刷され、マニアたちがそれを、一文字一文字、手で入力して遊ぶなどということがさかんに行われるようになっていたのである。1982年5月には日本ソフトバンク社(現・ソフトバンクグループ)からゲームソフトのソースプログラムも掲載した(号によっては大量のダンプリストも掲載した)雑誌『Oh!MZ』が創刊(6月号)となった。
この段階のパソコンゲームでもすでに、ゲームにはまってしまい何日もやり続けるなど、ゲーム依存症、一種の中毒になる人たちもいた。
PC8001、PC8800、PC9800のゲームPC-8001およびPC-8001Mk-II向けのマリオブラザーズ(スペシャル)のソフト(ハドソン)。カセットテープ(データレコーダ用)。PC-88VAとゲームソフトのパッケージ2つ(マリオブラザーズなど)
1979年にNECからPC-8001シリーズ、1981年にPC-8800シリーズが発売されると、パソコン愛好家たちは、こぞってゲームの制作・ソースコードの打ち込み・購入・プレイなどに熱中した。
スペースインベーダー、ギャラクシアン、ムーンクレスタ、ゼビウスなどの人気タイトルが次々と移植され、麻雀ソフトも流行した。このPC-8001用に初代『信長の野望』も開発・販売され、国産パソコンゲームの数少ない長寿タイトルとなっている。Category:PC-8001用ゲームソフトCategory:PC-8800用ゲームソフト英語圏のみで発売されて日本では販売されなかったソフトも多いのでen:List of PC-88 gamesも参照のこと。
1982年に日本電気(NEC)が、業務に使える水準に性能を向上させたPC-9800シリーズを発売すると、大企業からマニアまで急速に普及した。パソコンの愛好家たちやゲームメーカーは、高性能化したPC-9800を使って多数のゲームを展開し、国産パソコンゲームの全盛期を築いた。
PC-9800は日本国外でも販売され、英語のゲームソフトも多数開発された。
以下の一覧も参照のことPC-9800シリーズのゲームタイトル一覧Category:PC-9800シリーズ用ゲームソフト(英語圏でのみ発売され日本では販売されなかったソフトも多いので)en:List of PC-98 gamesも参照のこと。「PC-9800シリーズ#日本のパソコンゲーム文化」も参照
1980年代 IBM PC用のゲームグリーンモニタのIBM PC(XT)でプリンス・オブ・ペルシャをプレイ
1981年には、「コンピュータ業界の巨人」と言われていたIBMがIBM PCを発売し、欧米ではこれが標準的なコンピュータとなり普及した。またIBM PCのクローンを作るコンピュータメーカーが多数登場し、クローンマシンの群は「IBM PC コンパチブル」「PC/AT互換機」と呼ばれるようになり、IBM PCの仕様はデファクトスタンダード化した。
IBM PC(やそのクローン)は、基本はオフィスで使う想定で設計されたマシンなので主に企業の実務に使われたのではあるが、ゲームに使うということも行われた。たとえばアメリカの企業などの重役や中間管理職の部屋(※)にIBM PCが設置されている場合でも、基本は仕事のために使っていたにしても、一方でデスクの引き出しの中にはゲームソフトを1?3個ほど潜ませておいて、仕事の合間に息抜きにゲームをして遊ぶようなことは一般的だったと英語圏では言われている。※ アメリカのオフィスというのは、プライバシーが守られやすい傾向が強い。重役の場合原則的に完全に密閉した個室形式であるし、中間管理職程度の人でも背の高いパーティションでしっかり区切られ秘密やプライバシーが護られやすい構造になっている。つまりデスク上やディスプレイが他の従業員には直接見えないことが多い。その結果アメリカでは中ランク以上の社員たちは、コンピュータのスピーカから音が出ない設定にさえしておけば、業務用ソフトで真面目に仕事をしているのかゲームソフトで遊んでいるのか他の従業員には分からないので、オフィスでIBM PC(やクローン)を使って遊ぶこともできた。というわけで、IBM-PCおよびクローンマシン用のゲームソフトも多数作られた。
当時のIBM PCのディスプレイの主流はグリーンモニタ(当時「眼に優しい」と考えられていた緑色だけで表示するディスプレイ)であり、つまり単色表示であり、せいぜい濃淡しか表現できず、ほぼ白黒表示のようなものであった。カラー表示をしたいユーザはColor Graphics Adapter(CGA。IBM PC用のカラービデオカード)を使ったが、これもかなり限られた表示能力しかなく、色数の選択肢が2色、4色、16色しかなく、解像度も文字換算でわずか40x25あるいは80x25個表示できる水準でしかなく、かなり限られた表示能力でのゲームとなった。
1980年代に200以上のPCゲームが販売されるようになり、もとはApple II向けだったゲーム(Microsoft Flight Simulatorなど)も多数移植され、元はアーケードゲームだったゲーム(任天堂のドンキーコングやAtariのBattlezoneやナムコのパックマンなど)も移植された。en:List of self-booting IBM PC compatible games
Commodore 64のゲームC64のゲームプレイ風景。キーボード一体型の本体、表示用のテレビ受像機、ジョイスティックコントローラ、フロッピーディスクドライブ、データレコーダ。(ベルリンのコンピューターゲーム博物館de:Computerspielemuseum Berlinの展示)C64の「Spittis Search」の画面C64のドラッグレース・ゲーム
1982年にCommodore 64(コモドール64。略称 C64)の量産および販売が始まった。C64は欧米の一般家庭の人々に爆発的に売れた。C64はRFモジュレータ内蔵であったため、本体をそのまま家庭用テレビに接続して安価に使うことでき、また輝度信号と色信号に分離して出力可能なコンポジット映像信号出力端子も備えていたため、それに対応する別売専用モニターを接続すればより美しい出力を得ることもできた。コモドールは販売戦略にも長けていて、認定代理店で販売するだけでなく、デパートや玩具店やディスカウントストアでもC64を販売した。販売総数は1982年の量産開始から1993年の販売終了までに、1250万から1700万台ほどにおよんだとされており、単一機種としては最も販売台数の多いパーソナルコンピューターであり、今もこの記録は破られていない[2][3]。1983年から1986年の間、C64は毎年200万台以上売れ、市場シェアは30%?40%にもおよんだ[4]。競合機のPC/AT互換機やAppleの製品やAtariの8ビットファミリーよりもよく売れていた驚異的なマシンであり、家庭ではもっとも一般的なパソコンだったのである。
このC64向けに1万種を超えるソフトウェアが制作・販売されたとされており、家庭用のパソコンなのでまるでゲームマシンのように使う人も多く、C64向けに2000本を超えるゲームソフトが制作・販売された。
en:List of Commodore 64 games (A?M) - 1301 タイトル
en:List of Commodore 64 games (N?Z) - 749 タイトル
なお日本の市場では、パソコンとしてはNECのパソコン群との競合、ゲームマシンとしては日本のファミコンとの競合が起き、また日本語への適応もあまり良くなかった、などの諸事情が重なり、あまり販売数が伸びず日本では知名度が上がらなかった。だが欧米の人々にとっては、今なお1980年代のゲームマシンのようなパソコンとして圧倒的な知名度がある機種である。
2018年には復刻版のC64版がミニチュアサイズ、HDMI、USB端子つき、ジョイスティックつき、ゲームソフト64本こみで発売された(THEC64 Mini)[5]。2019年にはC64の復刻盤、HDMI端子つき、実物大つまり1980年代当時のサイズで、おまけにキーボードのタッチ感も再現したものが、やはりゲームソフト64本プリインストール済みの状態で発売された[6]。 1987年にシャープから発売されたX68000はコアゲーマーから熱狂的な支持を受けた。
シャープX68000のゲーム