パストール・マルドナド
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パストール・マルドナド
マルドナド (2015年マレーシアGP)
基本情報
フルネームパストール・ラファエル・マルドナド・モッタ
略称表記MAL
国籍 ベネズエラ
出身地同・アラグア州マラカイ
生年月日 (1985-03-09) 1985年3月9日(39歳)
F1での経歴
活動時期2011-2015
所属チーム'11-'13 ウィリアムズ
'14-'15 ロータス
出走回数96 (95スタート)
優勝回数1
表彰台(3位以内)回数1
通算獲得ポイント76
ポールポジション1
ファステストラップ0
初戦2011年オーストラリアGP
初勝利2012年スペインGP
最終勝利2012年スペインGP
最終戦2015年アブダビGP
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パストール・ラファエル・マルドナド・モッタ(Pastor Rafael Maldonado Motta, 1985年3月9日 - )は、ベネズエラマラカイ出身のレーシングドライバー2010年のGP2チャンピオン。ベネズエラ人としては初のF1優勝者。

フジテレビF1中継では「パストール・マルドナード」と表記されている[1]
経歴
カート/フォーミュラ・ルノー

ベネズエラ国内でカートレースを戦った後、1998年に国際カートレースに参戦するため渡欧した[2]

2003年からはイタリア・フォーミュラ・ルノー選手権に参戦し、翌2004年はイタリア選手権に加えユーロカップ・フォーミュラ・ルノーにも参戦し、イタリア選手権ではチャンピオンを獲得した。この年の11月、ミサノ・サーキットで行われたF1ミナルディチームのテストに参加した。
F3000/フォーミュラ・ルノー3.5

2005年にはイタリアF3000選手権に4戦のスポット参戦をし、フォーミュラ・ルノー3.5にも7戦に出場した。しかしフォーミュラ・ルノー3.5ではレース中の危険行為により4戦の出場停止を受けている。しかし翌シーズンの2006年はフォーミュラ・ルノー3.5にフル参戦を果たし、シリーズ3位となった。
GP2

2007年からはGP2に参戦し、その年のモナコで初優勝を果たした。2008年はシリーズ5位、2009年はシリーズ6位となったが、2010年は第3戦トルコからレース1おいて6連勝を記録し、この年のGP2チャンピオンを獲得した。
F1

2010年アブダビGP後に行われた若手ドライバーテストとピレリタイヤテストに、ヒスパニア・レーシングウィリアムズから参加し、2台のF1マシンで合計4日間走行した。2010年12月2日、ウィリアムズF1チームとのレギュラードライバー契約を発表し[3]2011年よりF1デビューすることが決定した。チームとマルドナド・PDVSAとの契約は2015年末までであった。
2011年

ウィリアムズから参戦。チームメイトはルーベンス・バリチェロ。開幕2戦はリタイアに終わり、第3戦中国GPでF1初完走を果たす。第5戦スペインGPの予選では自身初のQ3進出果たし9番グリッドを獲得。次の第6戦モナコGPでは前戦で記録した自己最高グリッドを更新する8番手からスタートすると、決勝では残り5周まで入賞圏内の6位を走行していたがルイス・ハミルトンと接触しリタイア、18位完走扱いに終わった。第12戦ベルギーGPで10位でフィニッシュし初入賞を果たした。その後もしばしば予選ではQ3に入り速さはアピールしたものの、入賞には届かない展開が続き、入賞は前述のベルギーGPの1度に留まりランキング19位、総獲得ポイントは1ポイントに終わった。2011年12月、来シーズンもウィリアムズに残留することが発表された[4]
2012年

引き続きウィリアムズから参戦。チームメイトはブルーノ・セナ2012年は開幕戦オーストラリアGPから幸先よく予選Q3進出を果たし、決勝も6位を走行していたが最終ラップのターン7でクラッシュを喫しストップ(13位完走扱い)。第2戦マレーシアGPにおいても、10位を走行していた決勝レース54周目にエンジントラブルによってリタイア(19位完走扱い)とチェッカーを受けられないレースが続いた。

第3戦中国GPで8位入賞を果たしポイント獲得に成功、第5戦スペインGPでは再び予選Q3に進出し予選2位のタイムを記録した。その後、ハミルトンが予選失格になったことで初のポールポジションを獲得。決勝レースではスタートでフェラーリフェルナンド・アロンソに先行を許すものの、ピットストップでポジション奪回に成功。そのまま抑えきりF1初優勝を果たした[5]。この優勝はベネズエラ人として史上初、ウイリアムズとしても2004年のファン・パブロ・モントーヤ以来8年ぶりの快挙であった。

しかしこのスペインGPでの優勝以降は入賞圏内にすら入れない日々が続いた。第12戦ベルギーGPでは予選3位のタイムを記録したが、セッション中にニコ・ヒュルケンベルグの走行を妨害したとして6位へと降格。更に決勝ではジャンプスタートするエラーを犯しドライブスルーペナルティを受けることになった。だがペナルティを受ける前にマルシャティモ・グロックと衝突しフロントノーズを破損、そのままリタイアとなった。これにより次戦はベルギーGPで受けるはずだったペナルティに加え更にグロックとの接触のペナルティにより10グリッド降格の処分を受けた。第13戦イタリアGPでは11位で完走したが入賞圏内の10位にはあと一歩及ばなかった。

第14戦シンガポールGPで予選2位を獲得。決勝でも混乱なく上位を走行していたが36周目に油圧系統のトラブルでリタイアとなり、スペインでの優勝以後は9戦連続でノーポイントとなった[6]

第15戦日本GPで8位となり、10戦ぶりにポイントを獲得。第18戦アブダビGPでは決勝5位とやや復調したが、決勝ノーポイントが多いことが響き、優勝を経験しながらシーズンランキングは13位で終了となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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