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ブレーズ・パスカル
パスカルの賭け(パスカルのかけ、フランス語: Pari de Pascal, 英: Pascal's Wager, Pascal's Gambit)は、フランスの哲学者ブレーズ・パスカルが提案したもので、理性によって神の実在を決定できないとしても、神が実在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す、という考え方である。『パンセ』の233節にある。『パンセ』は、パスカルが晩年にキリスト教弁証学についての書物を構想して書き綴った断片的ノートを死後にまとめたものである。
歴史的には、パスカルの賭けは確率論の新たな領域を描き出したという点で画期的であり、無限という概念を使った初期の1例であり、決定理論の形式的応用の最初の例であり、プラグマティズムや主意主義といったその後の哲学の先取りでもあった[1]。
文脈ブレーズ・パスカルは、理性が信頼できないなら、神の存在を信じることは、そうしないことよりも良い「賭け」である、と述べた。
この賭けは『パンセ』の中の他のテーマの上に成り立っており、そこでパスカルは特に宗教の分野で理性が信頼できるという我々の観念を体系的に解体している。『パンセ』の構成は死後に他者が勝手に決めたものだが(節の番号も出版者が参照用に追加したものである)、賭けの節が基盤を提供する他の部分の後に来ることは推定可能である。『パンセ』の大部分は確実性を攻撃しており、以下のような考え方を示していることから世界初の実存主義作品とされることもある。
カテゴリ引用
全体的な不確実性これこそ私が見ているものであり、私を悩ましているものである。私はあらゆる方を眺めるが、どこにもわからないものしか見えない。自然は私に、疑いと不安の種でないものは何もくれない[2]。
人間の目的における不確実性そもそも自然のなかにおける人間というものは、いったい何なのだろう。無限に対しては虚無であり、虚無に対してはすべてであり、無とすべてとの中間である[3]。
理性における不確実性このような理性の否認ほど、理性にふさわしいことはない[4]。
科学における不確実性自然法というものは疑いなく存在する。しかし、このみごとな腐敗した理性は、すべてを腐敗させてしまった[5]。
宗教における不確実性もし私が自然のなかに、神のしるしとなるものを何も見ないのだったら、私は否定のほうへと心を定めたことであろう。もしいたるところに創造主のしるしを見るのだったら、信仰に安住したことであろう。ところが、否定するにはあまりに多くのものと、確信するにはあまりに少ないものとを見て、私はあわれむべき状態にある。そのなかで私は、もし神が自然をささえているのだったら、自然が何の暖昧さなしにはっきりと神を示してくれるように、またもし自然の与える神のしるしが偽りのものならば、それをすっかりどけてくれるように、そして私がどちら側について行ったらいいかがわかるように、自然がすべてを語ってくれるか、何も語らないでくれるように、百度も願ったのである[2]。
神が、ある人々を盲目にし、他の人々を啓蒙しようとされたということを、原則として認めないかぎり、人は神の御業を何事も理解しない[6]。
懐疑における不確実性すべて不確実であるというのは確実ではないということを示すものにほからない[7]。
パスカルは読者に対して自らの立場を分析することを要求している。もし理性が本当に壊れていて神の存在を決定する際の土台にならないなら、コイントスしか残っていないことになる。パスカルの評価によると、賭けは不可避であり、神の存在の証拠や反証を信じられない者なら誰でも、無限の幸福が危険にさらされるかもしれないという状況に直面せざるを得ない。信じることの「無限」の期待値は、信じないことの期待値より常に大きい。
しかしパスカルは、この賭けを受け入れること自体が十分な救済だとはしていない。賭けが書かれている節の中で、パスカルは自身の理解について、それが信仰の推進力にはなるが信仰そのものではないと説明している。したがって、神の証拠を増すことによってではなく、君の情欲を減らすことによって、自分を納得させるように努めたまえ。君は信仰に達したいと思いながら、その道を知らない。君は不信仰から癒されたいとのぞんで、その薬を求めている。以前には、君と同じように縛られていたのが、今では持ち物すべてを賭けている人たちから学びたまえ。彼らは、君がたどりたいと思っている道を知っており、君が癒されたいと思う病から癒されたのである。彼らが、まずやり始めた仕方にならうといい。それは、すでに信じているかのようにすべてを行なうことなのだ。聖水を受け、ミサを唱えてもらうなどのことをするのだ。そうすれば、君はおのずから信じるようにされるし、愚かにされるだろう。――だが、僕のおそれているのは、まさにそれなのだ。――それはまたどうしてか。君に何か損するものがあるというのか。だが、これが信仰への道であることを君に納得させるのに役立つことは、君の大きな障害になっている情欲をこれが減らしてくれるということである。
この議論の終わり。
ところで、この方に賭けることによって、君にどういう悪いことが起こるというのだろう。君は忠実で、正直で、謙虚で、感謝を知り、親切で、友情にあつく、まじめで、誠実な人聞になるだろう。事実、君は有害な快楽や、栄誉や、逸楽とは縁がなくなるだろう。しかし、君はほかのものを得ることになるのではなかろうか。私は言っておくが、君はこの世にいるあいだに得をするだろう。そして君がこの道で一歩を踏みだすごとに、もうけの確実さと賭けたものが無に等しいこととをあまりにもよく悟るあまり、ついには、君は確実であって無限なものに賭けたのであって、そのために君は何も手放しはしなかったのだということを知るだろう。 ? パスカル、『パンセ』、中公文庫、1973年12月10日、162-164頁。 この節には複数の問題があります。改善
解説
出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2020年6月)
一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼って書かれています。(2020年6月)
独自研究が含まれているおそれがあります。(2020年6月)
賭けは『パンセ』の中では次のように書かれている。もし神があるとすれば、神は無限に不可解である。なぜなら、神には部分も限界もないので、われわれと何の関係も持たないからである。したがって、われわれは、神が何であるかも、神が存在するかどうかも知ることができない。そうだとすれば、だれがいったいこの問題の解決をあえて企てようとするであろうか。それは神と何の関係も持たないわれわれではない。
...「神はあるか、またはないか」と言うことにしよう。だがわれわれはどちら側に傾いたらいいのだろう。理性はここでは何も決定できない。そこには、われわれをとんとんかけ隔てる無限の混沌がある。この無限の距離の果てで賭が行なわれ、表が出るか裏が出るのだ。君はどちらに賭けるのだ。理性によっては、君はどちら側にもできない。理性によっては、二つのうちのどちらを退けることもできない。
したがって、一つの選択をした人たちをまちがっているといって責めてはいけない。なぜなら君は、そのことについて何も知らないからなのだ。――いや、その選択を責めはしないが、選択をしたということを責めるだろう。なぜなら、表を選ぶ者も、裏を選ぶ者も、誤りの程度は同じとしても、両者とも誤っていることに変わりはない。正しいのは賭けないことなのだ。
――そうか。だが賭けなければならないのだ。それは任意的なものではない。君はもう船に乗り込んでしまっているのだ。では君はどちらを取るかね。さあ考えてみよう。選ばなければならないのだから、どちらのほうが君にとって利益が少ないかを考えてみよう。君には、失うかもしれないものが二つある。真と幸福とである。また賭けるものは二つ、君の理性と君の意志、すなわち君の知識と君の至福とである。そして君の本性が避けようとするものは二つ、誤りと悲惨とである。