パシフィック電鉄
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パシフィック電鉄

報告記号PE
路線範囲ロサンゼルス都市圏全域
運行1911–1961
前身パシフィック電鉄
ロサンゼルス・インターアーバン鉄道
ロサンゼルス・パシフィック鉄道
ロサンゼルス・レドンド鉄道
サンバナディーノ・バレー電鉄
サン・バナディーノ・インターアーバン
レッドランド・セントラル
リバーサイド・アーリントン鉄道
軌間1,435 mm (4 ft .mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}8+1⁄2 in)
過去の軌間1,067 mm (3 ft 6 in)
(旧)ロサンゼルス・パシフィック鉄道
(旧)ロサンゼルス・レドンド鉄道
本社 アメリカ合衆国
カリフォルニア州ロサンゼルス
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ロサンゼルスのダウンタウンにあったパシフィック・エレクトリックの駅(1910年).mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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路線図( ⇒interactive version

パシフィック電鉄(Pacific Electric Railway、略称PE)はアメリカ合衆国カリフォルニア州南部で電気鉄道バス事業を展開していた企業。

全盛期の軌道延長1,700km、路線延長800kmで、その中には複々線区間も含まれる。1910年代から20年代にかけては、「世界最大の電気鉄道」を自称した。インターアーバンの一種と区分されるが、通勤輸送での活躍や高密度の列車運行、路線建設と住宅開発を並行して行うなどの点で、他の地域の電鉄会社とは異色の存在で、その形態は日本の大手私鉄によく似ている。

パシフィック電鉄の路線網の建設は1890年代にはじまり、旅客営業は1961年まで続けられた。
歴史1905年サン・ガブリエル付近のパシフィック・エレクトリック
大合併

ロサンゼルス都市圏全域をカバーする電鉄会社としてのパシフィック電鉄は、1911年の大合併により成立した。この時合併した会社は以下の8社である。

(旧)パシフィック電鉄

ロサンゼルス・インターアーバン鉄道

ロサンゼルス・パシフィック鉄道

ロサンゼルス・レドンド鉄道

サンバナディーノ・バレー電鉄

サン・バナディーノ・インターアーバン

レッドランド・セントラル

リバーサイド・アーリントン鉄道

このうち、1901年に設立された(旧)パシフィック電鉄やロサンゼルス・インターアーバン鉄道は、ヘンリー・ハンティントンという人物が設立した路線で、合併後の会社の路線の中核を担うことになった。ヘンリー・ハンティントンは、サザン・パシフィック鉄道の創設者の一人であるコリス・ハンティントンの甥で、カリフォルニア各地で電気鉄道の経営を行っていた。(旧)パシフィック電鉄やロサンゼルス・インターアーバン鉄道は、ハンティントンの南カリフォルニアにおける地域開発の思想が反映されたものと言われているが、大合併時までにこれらの会社はハンティントンの手を離れ、サザン・パシフィック鉄道の支配下に入っていた。

また、ロサンゼルス・パシフィック鉄道はハリウッドやサンタモニカ海岸を結んだ電鉄会社で、ロサンゼルス・レドンド鉄道は南西のレドンド海岸を結ぶ蒸気鉄道を電化した路線であった。いずれも狭軌 (1067mm) 路線として建設されたため、買収後に改軌が行われている。

大合併時、パシフィック電鉄の路線網はほぼ完成していた。その後の主な建設工事は、ロサンゼルス地区とサンバナディーノ地区の路線の空白を埋めることを目的としたもので、1915年に完成している。
繁栄期の問題

パシフィック電鉄は1920年代前半に最盛期を迎え、1912年に約7,000万人であった輸送客数は、1924年には1億900万人となった。その後は減少に転じ、1929年には8,800万人となるものの、他のインターアーバン路線と比べると、その減少の度合いは比較的少なかった。

しかし、ロサンゼルス郡の人口が1910年の50万人から1930年の220万人まで4倍に増加したことを踏まえると、この業績は不十分なものであった。ロサンゼルス近辺をカバーしていたサザン・パシフィック鉄道は、パシフィック電鉄と連携輸送体制を深める代わりに自社の近郊旅客輸送を廃止したため、ロサンゼルス郡内の郊外への通勤輸送はパシフィック電鉄の独占状態にあったが、路線の高規格化が進まなかったことからその役割を十分に果たしたとは言いがたかった。

高規格化が遅れた背景には、ロサンゼルス都市圏での公共交通整備に際して市民の合意を得られにくかったことが関係している。東部の都市で盛んに行われていた補助金による新線建設は反対により行えず、高額な運賃に不満を持つ市民も多かった。沿線自治体の中には、パシフィック電鉄と袂を分かって独自にバス運行を行う所も現れた。自家用車が台頭する中、会社はバス路線の拡充を行い、利用客の繋ぎとめを図った(バス輸送を含む1930年の輸送客数は1億人を維持している)が、部分的な成功を収めるに過ぎなかった。
衰退

大恐慌はパシフィック電鉄の旅客輸送に大きな影響を与えた。鉄道による旅客輸送数は激減し、会社は経営の効率化を迫られた。日系人の強制収容を報じる1942年4月7日付羅府新報特報。中央付近に「PE(=Pacific Electric)赤電車」の記述がある1942年4月5日、日系人の強制収容時のパシフィック電鉄

効率化の手段として会社が注目したのはバスであった。当時、バスの車体は徐々に大型化し、信頼性も高まっていた。人件費の面においても、連結運転の場合でも運転士に加えて各車両に車掌を乗務させる必要があった電車と、ワンマン運行のバスでは大差がなかった。このため、パサデナ、ロングビーチなどの市内路線、サンバナディーノ近辺のローカル路線を手始めに路線のバス化が進められていった。効率化計画には、ロサンゼルス市内の路線をニューヨーク地下鉄やシカゴ高架鉄道の路線の水準まで高め、基幹路線を高速鉄道として存続させるという計画も含まれていたが、何度も計画が立てられたにもかかわらず実行に移されることはなく、路線の廃止が進められた。

1930年代末から1940年代にかけては、サンバナディーノ近辺の路線を中心とした大規模な路線の廃止が行われ、車両の大量廃車も進められた。1941年以降はサンペドロにある造船所の工員輸送などを中心とした戦時輸送に対応するために、オークランドのサザン・パシフィック鉄道の近郊電車線の車両を導入し、輸送力強化を図ったが、一時期増加した利用客も戦争終結とともに鉄道から離れていった。

ロサンゼルスのフリーウェイの全容が固まった1950年前後に、第二期の大規模な路線廃止が行われた。複々線区間を含むパサデナへの路線、サンタモニカ海岸への路線など、ロングビーチに向かう路線以外の主要な路線はこの時期に廃止された。メトロポリタン・コーチ・ラインズ時代のBig Red Car。前面形状から「owl(フクロウ)と呼ばれた(1955年・ロサンゼルス)

この後、会社はバス化を前提として1953年、メトロポリタン・コーチ・ラインズに旅客列車運行権を売却する。メトロポリタン・コーチ・ラインズはハリウッドに向かう路線廃止を行ったが、フリーウェイ整備が進まなかった南部への路線は廃止しなかった。

パシフィック電鉄の残存する旅客サービスを完全に廃止させたのは、ロサンゼルス都市圏交通局である。交通局は1958年に結成され、メトロポリタン・コーチラインズの他ロサンゼルスの路面電車とバスを運営するロサンゼルス・トランジット・ラインを買収した。パシフィック電鉄の残存路線についてはモノレールを用いた高規格化を試み、累積赤字と高規格化の前段階であることを理由に最後まで残ったロングビーチ線を1961年に廃止した。しかし、交通局の計画したモノレールは、過去の高速鉄道計画と同様に住民の反対に遭い、実現しなかった。

市内電車を運行し、一部で三線軌条を利用することで路線を部分的に共用していた3フィート6インチ軌間ロサンゼルス鉄道1963年までにバス転換され、ロサンゼルス市内の軌道系交通機関は皆無となった。路線ネットワークが再び整備され始めるのは、1980年代に計画され1990年に開業したロサンゼルス・メトロブルーラインまで、実に30年近い歳月を要することになる[1]
設備
路線パシフィック電鉄路線図(1920年)

パシフィック電鉄の路線は、北部、南部、西部の3つに分けられた。それぞれの地域の主要路線は以下の通りである。

北部地区(東部地区と通常呼ばれている地区も含む)
パサデナショートライン、サンバナディーノライン

南部地区
ロングビーチライン、サンタアナライン、サンペドロライン、ホイッティアーライン、ニューポートビーチライン


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