パサデナ
City of Pasadena
愛称 : 苺の首都
標語 : "遺産によって富み、未来によって着想を得る"
位置
ハリス郡内の位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯29度40分34秒 西経95度10分26秒 / 北緯29.67611度 西経95.17389度 / 29.67611; -95.17389
パサデナ(パサディーナ英: Pasadena、発音: [?pas??di?n?])は、アメリカ合衆国テキサス州のハリス郡にある都市。人口は15万1950人(2020年)。ヒューストン都市圏に入っている。
町としては1893年にガルベストンのジョン・H・バーネットによって設立された。植生がカリフォルニア州パサデナと類似していると思ったので、バーネットがパサデナと名付けた。パサデナという言葉はチッペワ族インディアンの"Weoquan Pasadenaすなわち「流域の王冠」の一部を採ったものである[2]。
パサデナの自警消防団は全米でも最大の全てがボランティアによる消防団となっている[3]。 ヨーロッパ人が入る以前、ガルベストン湾周辺の地域にはカランカワ族とアタカパ族などインディアンが住んでいた。特にアコキサ族はメキシコ湾岸全体に住んでいた。スペインのリバス・イリアルテ遠征隊やホセ・アントニオ・デ・エビアなどの探検家が湾岸の海図を作り、地名を決めていった[4]。海賊のジャン・ラフィットが19世紀初期に湾岸とクリア湖周辺に基地と隠れ家を設けて、ガルベストンに短命の王国を打ち立てた[5]。ラフィットは1821年にアメリカ合衆国海軍によって強制退去させられた[6]。 メキシコはスペインからの独立宣言に続いて、新しい国家としてメキシコ国内およびアメリカ合衆国からの開拓者に土地特許を認めることで北方の領土であるテキサスへの植民に動いた。この植民地はスティーブン・オースティンによって樹立され、ニューヨークのガルベストン湾テキサス土地会社が湾周辺に急速に開拓者の波を受け容れ始めた[7][8][9]。メキシコにおけるアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナによるクーデターに続いて、テキサスは1835年にメキシコの支配に対する革命を起こした[10]。幾つかの戦闘や小競り合いが続いた後、1836年4月21日にテキサス革命の最後の戦い(サンジャシントの戦い)が現在のパサデナ近くで起こった。サンタ・アナはビンス・バイユーで捕虜になった。これがメキシコの降伏に繋がる最後の闘争になったので、パサデナと近隣のディアパークは「テキサスの生誕地」という渾名を採用した[11]。 1843年にサム・アレンが350エーカー (1.4 km2) の土地で牧場を始めた。これが現在のパサデナ西部からハリスバーグまでの全てを占めたアレン牧場となった。1888年までにこの牧場はハリス郡内に15,000エーカー (60 km2)、ブラゾリア郡に10,000 エーカー (40 km2)、ガルベストン郡とフォートベンド郡に放牧地があるという広さになった。
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牧畜と開拓