パグウォッシュ会議
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ノーベル賞受賞者
受賞年:1995年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:国際政治における当面の核兵器の削減と、長期的な核廃絶のための努力に対して

パグウォッシュ会議(パグウォッシュかいぎ、Pugwash Conferences)、正式には科学と世界の諸問題に関するパグウォッシュ会議(かがくとせかいのしょもんだいにかんするパグウォッシュかいぎ、Pugwash Conferences on Science and World Affairs)は、全ての核兵器およびすべての戦争の廃絶を訴える科学者による国際会議である。「2007年-2012年」期の会長は、スリランカの外交官ジャヤンタ・ダナパラ

バートランド・ラッセルアルベルト・アインシュタインによるラッセル=アインシュタイン宣言での呼びかけを受け、11人の著名な科学者によって創設された。
来歴

1957年7月7日カナダノバスコシア州パグウォッシュにある鉄道王サイラス・スティーブン・イートンの別荘に、湯川秀樹朝永振一郎小川岩雄マックス・ボルンフレデリック・ジョリオ=キュリーら10カ国22人の科学者たちが集まって第1回の会議が開かれた。会議においてはすべての核兵器は絶対悪であるとされた。

しかし第2回会議以降、核兵器に対する評価は変化し、核兵器廃絶を訴えるラッセルらと、核兵器との共生を求めるレオ・シラードらとの対立が鮮明化し始めた(シラードは核抑止論側に立った)。核抑止論が会議に定着し始め、1964年第12回会議において、最小限抑止の原則は全面軍縮に至る最も有用な道であるとされた。[要出典]

1958年9月20日、ウィーンで開かれた第3回パグウオッシュ会議で、ウィーン宣言が採択された。

1961年のソ連の水爆実験再開に抗議する湯川・朝永・坂田声明は、署名者の一人だったジョセフ・ロートブラットによって握りつぶされた。これらを契機に1962年、科学者京都会議が組織された。1990年第40回会議(ロンドン)は日本船舶振興会創価学会の寄付を受けた[要出典]。後に明らかになったことであるが、ソビエトは欧米の反戦運動に工作員を送り込んでおり、パグウォッシュ会議においてもソ連に関する批判は抑制あるいは握りつぶされるとともにアメリカおよび西側の批判が拡張されるという事態になっていた[1]。アメリカにおけるソビエト誘導の反戦活動の拠点となっていたのは米国平和委員会(US Peace Council)であり、アメリカ議会の諜報委員会においてこの組織と関係の深かった組織としてパグウォッシュ会議の名前が挙げられている[2]

1995年にはノーベル平和賞を受賞している。1995年の広島における会議は原発関係者の大口寄付を受けた[要出典]。
過去の会議

初期のころのパグウォッシュ会議の開催地と会期は以下のようである。

開催地会期
第1回
カナダノバ・スコシア州パグウォッシュ1957年7月7–10日
第2回カナダ、ケベック州ラック=ボーポール (Lac-Beauport)1958年3月31日–4月11日
第3回オーストリアキッツビュールおよびウィーン1958年9月14–20日
第4回オーストリア、バーデン1959年6月25日–7月4日
第5回カナダ、ノバ・スコシア州パグウォッシュ1959年8月24–29日
第6回ソ連モスクワ1960年11月27日–12月5日
第7回アメリカヴァーモント州ストウ (Stowe)1961年9月5–9日
第8回アメリカ、ヴァーモント州ストウ1961年9月11–16日
第9回イギリスケンブリッジ1962年8月25–30日
第10回イギリス、ロンドン1962年9月3–7日
第11回ユーゴスラビアドゥブロヴニク1963年9月20–25日
第12回インドウダイプル1964年1月27日–2月1日
第13回チェコスロヴァキアカルロヴィ・ヴァリ1964年9月13–19日
第14回イタリアヴェネツィア1965年4月11–16日
第15回エチオピアアディス・アベバ1965年12月29日–1966年1月3日
第16回ポーランドソポト1966年9月11–16日
第17回スウェーデン、ロンネビュー (Ronneby)1967年9月3–8日
第18回フランスニース1968年9月11–16日
第19回ソ連、ソチ1969年10月22–27日
第20回アメリカウィスコンシン州フォンタナ (Fontana)1970年9月9–15日


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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