パクス・ロマーナ(羅: Pax Romana(パークス・ローマーナ))とは「ローマによる平和」を意味し、多くの戦争(英語版)や領土拡大(英語版)、反乱などにもかかわらず、拡大し維持された内部の覇権的平和と多大な影響を与えた黄金時代の秩序と同一視される、ローマ史(英語版)において約200年もの長きにわたり続いた平和な時代を指す。プリンキパトゥスの創始者アウグストゥスによる紀元前27年のローマ皇帝即位に始まり、最後の「五賢帝」であるマルクス・アウレリウス・アントニヌスが死去した西暦180年までの期間と定められている[1]。ただし、「五賢帝」とともに美化されたイメージは、今日の歴史学では基本的に支持されていない[2]。共和政ローマ最後の戦闘であったアントニウス・オクタウィアヌス内戦(英語版)の終結とともにアウグストゥスにより始まったため、パクス・アウグスタ(Pax Augusta)と呼ばれることもある。パクス(パークス)とはローマ神話に登場する平和と秩序の女神である。
およそ2世紀のこの期間[3]にローマ帝国は最大の版図拡大を達成し、その人口は最大で7000万人にも達した[4]。当時の歴史家カッシウス・ディオによれば、コンモドゥスの独裁政治とその後のローマ内戦、そして3世紀の危機が、ローマの継承国を「金の王国から鉄と錆の王国へ」として特徴づけた[5]。 以前の歴史においては何世紀にもわたり平和が訪れたことがなかったため、パクス・ロマーナは「奇跡」だと言われる。しかし、歴史家のウォルター・ゴッファート
概観
パクス・ロマーナという用語の最初の記録は、55年に書かれたルキウス・アンナエウス・セネカによる著作の中に登場する[8]。この概念は非常に影響力を持ち、後世の理論や模倣の対象となった。アルナルド・モミリアーノは、「パクス・ロマーナはプロパガンダにとってシンプルな常套句だが、研究には困難なテーマだ」 と指摘している[9]。アウグストゥス治世下におけるローマ帝国の版図。緑はアウグストゥスの治世下に徐々に征服された地域、黄色は紀元前31年の共和政ローマの版図、桃色の領域は従属国をそれぞれ表している。
パクス・ロマーナの端緒は、紀元前31年9月2日にオクタヴィアヌス(アウグストゥス)がマルクス・アントニウスとクレオパトラ7世をアクティウムの海戦で破り、その後ローマ皇帝に即位した時期である[1][10][4]。彼はプリンケプス、すなわち「第一人者」となった。独裁支配が成功した良い先例を欠いていたため、彼は最大の軍事関係者らによる軍事政権を作り前線に立ち、これらの有力者とともに合同してまとめることで彼は内戦の可能性を排除した。ヒスパニアとアルプスでは戦闘が続いていたため、内戦は終結したものの直ちにパクス・ロマーナとなったわけではない。それにもかかわらずアウグストゥスは、ローマが平和であることを示すヤヌス神殿の扉を3回にわたり閉じた[11]。1度目は紀元前29年、2度目は紀元前25年であり、3度目の閉鎖は文書化されていないが、Inez Scott Ryberg(1949)とGaius Stern(2006)は、アラ・パキスの委託に伴う3度目は紀元前13年であったと説得力を持って年代を定めた[12][13][14]。
アウグストゥスは、200年間も戦争を続けてきたローマ人(en:Roman people)にとって、平和を受容できる生活様式にするという問題に直面した[13]。ローマ人は平和を戦争がない時期ではなく、すべての敵対勢力が打ちのめされ抵抗力を失ったという稀な状況だとみなしていた[9]。彼の課題は、危険な戦争で獲得する可能性上の富や名誉よりも、戦争がなくとも得られる繁栄の方が帝国にとってより良いとローマ人に説得することであった。彼の企図は巧みな宣伝により成功した。その後の皇帝らも彼の先例に倣い、時にはヤヌスの門を閉めるための豪華な式典を開いたり、パクス(Pax)と裏面に印字された硬貨を発行したり、パクス・ロマーナの恩恵を賞賛する文学を後援した[13]。
14年のアウグストゥスの死後、ローマ皇帝としての彼の後継者のほとんどは彼の政治手段を継続し、特にパクス・ロマーナ最後の皇帝5人は「五賢帝」とみなされた[4]。
貿易への影響「ローマ帝国と漢の比較研究(英語版)」および「中国・ローマ関係(英語版)」も参照
地中海におけるローマの貿易はパクス・ロマーナの時代に増加し、ローマ人は絹や宝石、オニキス、香辛料などを得るために東へ航海した。帝国にて莫大な利益と収入という恩恵を受けたローマ人らは、地中海貿易のおかげで成長した[15][16]。
ローマ帝国による西洋のパクス・ロマーナは漢による東洋のパクス・シニカとほぼ同時期であったため[17][18]、ユーラシア史(英語版)における長距離旅行と貿易はこの時期に大きく活性化された[18]。
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