パクス・ブリタニカ
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パクス・ブリタニカ(: Pax Britannica(パークス・ブリタンニカ))とは、イギリス帝国が世界的な覇権国家となり「世界の警察官」の役割を果たした期間における、列強間の相対的な平和の時代を指す用語[1][2]。「パクス」はローマ神話の平和と秩序の女神に由来する。1886年のイギリス帝国。その版図を示す桃色は帝国の伝統色でもあった。

1815年から1914年の間、イギリスの「帝国の世紀(imperial century)[3][4]」と呼ばれる時期に、約2600万平方キロの領土とおよそ4億人もの人々がイギリス帝国に加えられた[5]フランス第一帝政に対する勝利はイギリスを、おそらく中央アジアにおけるロシア帝国とのグレート・ゲームを除いて、深刻な海外の対抗勢力がない状態にした[6]。ロシアがバルカン半島にその影響力を広げようとした際には、クリミア戦争1853年?1856年)で英仏がこれを破り、オスマン帝国を保護した。

イギリス海軍は主要な海上通商路のほとんどを支配し、確固たるシーパワーを有していた。イギリス帝国は自国の植民地を公式に支配していただけでなく、世界の貿易においても優勢な立場にあったため、アジアラテンアメリカといった多くの地域へのアクセスを事実上支配していた。イギリスはまた、他の植民地帝国を非常に動揺させたが、アメリカ合衆国南北アメリカにおける経済的支配を進展させるモンロー主義の維持を支援した。イギリスの商人や海運業者、銀行家らは、その植民地に加えて非公式帝国も擁していたという、他の諸帝国の同業者よりも圧倒的な優位にあった[7][8][9]
語源

"pax" はラテン語で「平和」を意味し、"-ica" は英語の "-ic" にあたる接尾辞である[10]。したがって、「パクス・ブリタニカ(Pax Britannica)」の意味は「イギリス(ブリタンニア)の平和」となる。Oxford English Dictionary では、1899年桂冠詩人による Pax Britannica という詩が最初の使用例とされている[注釈 1]
概論

歴史家ホブズボームフランス革命から第一次世界大戦勃発までの、いわゆる「長い19世紀」を三期に分け、1789年から1848年までを「革命の時代」、1848年から1878年までを「資本の時代」、1878年から1914年までを「帝国の時代」と呼んだ。イギリス帝国の全盛期パクス・ブリタニカはこの区分のうち、「資本の時代」および「帝国の時代」とほぼ重なる。パクス・ブリタニカには厳密な定義があるわけではなく、時期についてはいくつかのヴァリエーションが存在する。一般的にはイギリスが「世界の工場」となった1850年頃に始まるとされ、終わりについては、その地位を失った1870年頃と第一次世界大戦の始まる1914年の二つのパターンがある。またあまり一般的でないが、ナポレオン戦争終了時(1815年)から第一次世界大戦勃発(1914年)まで[11]という広義的な見方もある。

確かに「平和」という点からすると、ナポレオン戦争終結の1815年から第一次世界大戦が始まる1914年という約100年は比較的平和な時期である[12]。しかし、1815年の時点では世界に先駆けて工業化を開始したとはいえ、イギリスもまだ産業革命の途中であり、まだ優位はそれほど顕在化していない。イギリスに最盛期が訪れるのは革命と改革の嵐が過ぎ去った「資本の時代」になってからである。

ひとくちに最盛期といっても1860年代から70年代を挟み、イギリス帝国はその容貌を大きく変えている。1860年以前は自由貿易全盛の時期であったが、1860年代にはヨーロッパ大陸でも工業化が進み、世界の工場としての優位性は次第に失われていった。この時期をパクス・ブリタニカの絶頂とする見解はこの「世界の工場」としての地位を基準としている。とはいうものの、ヨーロッパ市場はドイツ帝国などの保護貿易を採った後発国に席捲されたが、アジアアフリカなどの市場は依然としてイギリスが支配的であったし、そもそも後発国の工業化はイギリスの金融市場と資金によって成し遂げられたものである。イギリスが「世界の工場」であったのはほんの20年ほどであり、むしろ「世界の銀行」としての役割の方がイギリスにとっては重要であり、19世紀後半のイギリス帝国を牽引するのは製造業ではなく、金融業であったと今日では考えられている[注釈 2]。したがって「世界の工場」としての地位が失われた1870年代以降についてもパクス・ブリタニカと呼ぶのも不自然ではない。むしろこの言葉が19世紀末に使われ始めたことを考えると、その頃に顕在化する、帝国という目に見える繁栄の証こそがパクス・ブリタニカの本来のイメージに合致するとも言える。
歴史「列強の国際関係 (1814?1919)(英語版)」も参照
台頭

アメリカ合衆国の独立の際に英領アメリカの主要地域であった13植民地を喪失した後、イギリスはアジア、太平洋、そして後にはアフリカへと目を向け探査した結果、第2イギリス帝国(Second British Empire、1783年?1815年)の興隆をもたらした。産業革命は1700年代後半にイギリスで始まり、アダム・スミスの『国富論』(1776年)のように自由市場についての新たな思想が生まれた。自由貿易はイギリスが1840年まで実践した中心原則となり、その経済成長と金融支配において重要な役割を果たした[13]1910年時点のイギリス帝国領

1815年のナポレオン戦争終結から1914年の第一次世界大戦勃発まで、イギリスは世界的な覇権国(最も影響力のある主体)の役割を果たした。主要な海上貿易路に対する「イギリスによる平和」の賦課は、1815年のイギリス領セイロン(現在のスリランカ)の併合に始まった[14]。ペルシア湾総督邸(英語版)の管理下にて、現地のアラブ人指導者らはその地域に対するイギリスの保護を正式なものとする複数の条約に同意した。イギリスは彼らに、1820年の総合海洋条約(英語版)として知られる海賊対策条約を課した。1853年の恒久海洋休戦協定(the Perpetual Maritime Truce)に調印したことで、イギリスが外部の脅威から保護する代わりにアラブ人支配者らは海上戦争の遂行権を放棄した[15]
繁栄

イギリスの軍事および通商の世界的な優位は、分断され比較的脆弱であった大陸ヨーロッパと、全世界の海洋におけるイギリス海軍の存在によって支えられていた。公式帝国以外でも、イギリスは中国、タイ、アルゼンチンなど多くの国との貿易を管理していた。ウィーン会議の後も、イギリス帝国の経済力は海軍の優勢[16]と大陸ヨーロッパにおける勢力均衡を維持するための外交努力を通じて発展し続けた[17]

この時代、イギリス海軍は海賊の鎮圧や奴隷貿易の禁止(アフリカ封鎖(英語版))など、他国に利益をもたらすサービスを世界中で提供した。1807年奴隷貿易法(英語版)はイギリス帝国内における取引を禁止していたが、その後イギリス海軍が西アフリカ艦隊(英語版)を創設し、政府は禁止令を執行できるようにするための国際条約の交渉をした[18][19]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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