パウロ
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この項目では、キリスト教の新約聖書上の人物について説明しています。その他の用法については「パウロ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

「聖パウロの改宗」はこの項目へ転送されています。パルミジャニーノの絵画については「聖パウロの改宗 (パルミジャニーノ)」をご覧ください。
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この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため、中立的でない偏った観点から記事が構成されているおそれがあり、場合によっては記事の修正が必要です。議論はノートを参照してください。(2021年12月)

パウロ
ピエトロ・ダ・コルトーナが1631年に描いたパウロの回心 
生誕紀元5年[1]
ローマ帝国キリキア属州タルスス[2]
(現トルコ南部)
死没紀元67年[3]
ローマ[3]
崇敬する教派キリスト教全宗派
主要聖地サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂
象徴
守護対象神学者、伝道、異邦人クリスチャン[4]
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ジャン・フーケによる絵、中央にパウロ

パウロ(: Πα?λο?[注 1]、? - 60年[5])は、初期キリスト教使徒であり、新約聖書の著者の一人。はじめはサンヘドリンと共にイエスの信徒を迫害していたが、回心してイエスを信じる者となり、ヘレニズム世界に伝道を行った。ユダヤ名でサウロ(希:Σα?λο?,ヘブライ語: ???????‎、???ul)[6]とも呼ばれる。古代ローマの属州キリキアの州都タルソス(今のトルコ中南部メルスィン県のタルスス)生まれのユダヤ人[7]
概要

「サウロ」はユダヤ名(ヘブライ語)であり、ギリシア語名では「パウロス」となる(現代ギリシャ語ではパヴロス)。彼は「使徒として召された」(ローマ1:1)と述べており、日本正教会では教会スラヴ語を反映してパウェルと呼ばれる。正教会ではパウロを首座使徒との呼称を以て崇敬する。

聖人であり、その記念日はペトロとともに6月29日ユリウス暦を使用する正教会では7月12日に相当)である。

正教会カトリック教会はパウロを使徒と呼んで崇敬するが、イエスの死後に信仰の道に入ってきたためイエスの直弟子ではなく、「最後の晩餐」に連なった十二使徒の中には数えられない。

パウロはギリシア語ヘブライ語話すことができた[8]
略歴

ローマ市民権を持つユダヤ教徒であった
[9]

紀元後30年ごろ[10]刑死によってナザレのイエスが他界する。

イエスはキリストだとする集団が生まれた[11]

イエスはキリストだとする集団を根絶しようとし、信者を取り締まり、牢に入れた[12][13][14]

年代は不明であるが、イエスはキリストだとする集団の一員となった[15][16]

50年ころ、ユダヤ人からの迫害を受けてきていることを記している[17][18]

54年ころ、コリント人への第一の手紙を記し[19]、書簡の中で、死んだはずのナザレのイエスに自分は出会ったことがあるとしている[20][21]

54年頃、ガラテヤ人への手紙を記し[22]、自らの異邦人への伝道を「キリストの福音」と表明して伝道していることを記している。その福音は、すでに死去したナザレのイエスが直接自身に内的な啓示によって通信してきたものであることを表明した[23]

いくつかの地方に教会を開く[24]

投獄される[25]

刑死により他界する[26]

66年から70年、第一次ユダヤ戦争の結果としてエルサレム神殿が崩壊した。異邦人への「キリストの福音」が主流となる。

生涯
ユダヤ教徒時代ヴァランタン・ド・ブーローニュもしくはニコラ・トゥルニエによる1620年ごろの作。執筆中のパウロデューラー『4人の使徒』(部分)。マルコ(左)とパウロ(右)

新約聖書の『使徒行伝』によれば、パウロは生まれながらのローマ市民権保持者であった[27]ベニヤミン族のユダヤ人でもともとファリサイ派に属し、エルサレムにて高名なラビであるガマリエル1世(ファリサイ派の著名な学者ヒレルの孫)のもとで学んだ。パウロはそこでキリスト教徒たちと出会う。熱心なユダヤ教徒の立場から、始めはキリスト教徒を迫害する側についていた。ステファノを殺すことにも賛成していた[28]
回心

ダマスコへの途上において、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、天からの光とともにイエス・キリストの声を聞いた、その後、目が見えなくなった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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