ドイツ国の政治家パウル・フォン・ヒンデンブルクPaul von Hindenburg
生年月日1847年10月2日
出生地 ドイツ連邦
プロイセン王国
ポズナン大公国、ポーゼン
(現ポーランド領ポズナン)
没年月日 (1934-08-02) 1934年8月2日(86歳没)
死没地 ドイツ国
プロイセン自由州、東プロイセン、グート・ノイデック
(現ポーランド領オグロジェニェツ
大鉄十字星章 プール・ル・メリット勲章
配偶者ゲルトルート(ドイツ語版)(旧姓フォン・シュペルリンク)
親族オスカー・フォン・ヒンデンブルク(息子)
サイン
ドイツ国
第2代 大統領
内閣ルター内閣
マルクス内閣
ミュラー内閣
ブリューニング内閣
フォン・パーペン内閣
フォン・シュライヒャー内閣
ヒトラー内閣
在任期間1925年5月12日 - 1934年8月2日
ドイツ帝国陸軍
第3代陸軍最高司令部長
内閣フォン ・ベートマン・ホルヴェーク内閣
在任期間1916年8月29日 - 1919年7月3日
皇帝ヴィルヘルム2世
プロイセン王国陸軍
第16代陸軍参謀本部総長
内閣フォン ・ベートマン・ホルヴェーク内閣
在任期間1916年8月29日 - 1919年7月3日
国王ヴィルヘルム2世
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軍歴
ヒンデンブルクの肖像写真 (1914年)
渾名タンネンベルクの英雄
(独: Sieger von Tannenberg)
所属組織
プロイセン王国陸軍
ドイツ帝国陸軍
プロイセン王国陸軍
ヴァイマル共和国陸軍
軍歴1866年 - 1911年
1914年 - 1919年
最終階級 陸軍元帥
除隊後ヴァイマル共和国大統領
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パウル・ルートヴィヒ・ハンス・アントン・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク(ドイツ語: Paul Ludwig Hans Anton von Beneckendorff und von Hindenburg、1847年10月2日 - 1934年8月2日)は、ドイツの陸軍軍人、政治家。第15代陸軍参謀総長(在任:1916年 - 1919年)、ドイツ国(ヴァイマル共和政)第2代大統領(在任:1925年 - 1934年)を務めた。軍人としての階級は陸軍元帥である。
第一次世界大戦のタンネンベルクの戦いにおいてドイツ軍を指揮してロシア軍に大勝利を収め、ドイツの国民的英雄となった。大戦後期には参謀総長を務め、エーリヒ・ルーデンドルフと共に「沈黙の独裁」と呼ばれる軍部独裁体制を現出した。戦後、共和制となったドイツにおいて大統領に当選。アドルフ・ヒトラーを首相に任命し、国民社会主義ドイツ労働者党政権樹立への道を開いた。
生涯
生い立ちフォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク家の紋章
プロイセン王国・ポーゼンでユンカーの家に長男として生まれる。父はプロイセン第18歩兵連隊に所属する少尉ロベルト・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク(Robert von Beneckendorff und von Hindenburg)。母は軍医の娘ルイーゼ(Luise)(旧姓シュヴィカルト(Schwickart))[1][2]。
ベネッケンドルフ家は1280年に現在のザクセン=アンハルト州ザルツヴェーデル郡に属するアルトマルク(de:Altmark)に興った家であり、やがて近隣のノイマルク(de:Neumark)を経て、プロイセンへ移住した。代々軍人の家系であり、一族にはドイツ騎士団に参加した者もいる。ノイマルク時代の1789年にベネッケンドルフ家は男系が絶えたヒンデンブルク家と婚姻で結び付いて統合した[3][4]。ヒンデンブルク家も13世紀から続く代々軍人の家系だった[5]。なおタンネンベルクの戦いでヒンデンブルクの姓が有名になる以前はベネッケンドルフの方の姓で呼ばれることが多かった[6]。
フリードリヒ大王の時代にヒンデンブルク家はリムブゼー(pl:Limbsee)とノイデック(Neudeck)を所領として与えられる。リムブゼーの所領はやがて失ったが、ノイデックの所領はヒンデンブルクが生まれた頃にも残っており、彼の祖父母がそこで暮らしていた。ヒンデンブルクは夏休みにはいつもそこへ遊びに行ったという。祖父母の死後の1863年からヒンデンブルクの両親はノイデックに移り住んでいる[7][# 1]。
ヒンデンブルクは幼少期から厳格な軍隊的生活の中で育てられ、スパルタ教育を施された。幼いヒンデンブルクが不服や愚痴を述べると彼の乳母は「分隊静粛にしろ!」といった軍隊調の口調で怒鳴りつけたといわれる[8]。
小学校からプロテスタント系のギムナジウムへ進んだ後、1859年にワールシュタット(Wahlstatt)の士官学校(de:Kadettenanstalt)に入学した。1863年の復活祭を機にベルリン・大リヒターフェルデ(de:Gros-Lichterfelde)のプロイセン高級士官学校(de:Preusische Hauptkadettenanstalt)に移った[9]。
士官学校在学中の1865年に亡きプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の王妃エリーザベトの近習を務めた[8]。ヒンデンブルクはエリーザベトから賜った懐中時計を大事にしていた[9]。
第一次世界大戦前の軍歴1897年の少将時代のヒンデンブルク
1866年4月に士官学校を卒業し、近衛歩兵第三連隊の少尉 (Leutnant) に任官した。1866年6月にはじまった普墺戦争に従軍し、最初の実戦経験を得た。同戦争のケーニヒグレーツの戦い(Schlacht bei Koniggratz)で勇戦した功績により赤鷲勲章(ドイツ語版)を授与された[1][8]。
1870年から1871年の普仏戦争にも従軍し、セダンの戦いに参加した[1]。その勇敢さを認められ、鉄十字章を受け、さらに1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿「鏡の間」で行われたヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式に、所属する近衛歩兵第三連隊の代表として参列することを許されたのであった[8]。
以降は第一次世界大戦まで大きな戦争もなく、ヒンデンブルクは平時の軍隊勤務に40年間を過ごすこととなる[8]。1873年にはプロイセン戦争大学校に入学[10]。この大学での友人にカール・フォン・ビューロウ、ヘルマン・フォン・アイヒホルン、皇族アレクサンダー・フォン・プロイセンなどがいる。皇族の御学友になったことで軍部や政界、宮廷などに顔が利くようになった[10]。
1877年にプロイセン戦争大学を卒業し、1878年4月に大尉 (Hauptmann) に昇進するとともに参謀本部に配属され、シュテティンの第二軍司令部付の参謀となった[11]。シュテッティン勤務時代の1879年に歩兵大将クルト・フォン・シュペルリング(ドイツ語版)の娘ゲルトルート(ドイツ語版)と結婚した。彼女との間に一人の息子(オスカー)と二人の娘を儲けた[12]。
1881年にはケーニヒスベルクの第一師団付参謀、1884年にはポーゼンの第58連隊の中隊長に転任する[13]。1885年夏に参謀本部勤務となり、少佐(Major)となる。