パウル・ヒンデミット
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パウル・ヒンデミット
Paul Hindemith

基本情報
生誕1895年11月16日
出身地 ドイツ帝国ハーナウ
死没 (1963-12-28) 1963年12月28日(68歳没)
西ドイツフランクフルト
ジャンル新古典主義
職業作曲家、演奏家
1995年に発行されていた切手.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽

パウル・ヒンデミット (Paul Hindemith、1895年11月16日 - 1963年12月28日)は、ドイツハーナウ出身の作曲家指揮者ヴィオラ奏者。その他にもヴァイオリンクラリネットピアノなど様々な楽器を弾きこなす多才な演奏家であった。

第一次世界大戦後、ロマン派からの脱却を目指し、新即物主義を推進。20世紀ドイツを代表する作曲家として同時代の音楽家に強い影響を与えた。また生涯に600曲以上を作曲。交響曲オペラばかりではなく、オーケストラを構成するほぼすべての楽器のためのソナタを作曲した。
経歴アマール四重奏団の一員として(右から二人目)(1925年)

1895年11月16日ドイツのハーナウに生まれた。父親はシレジアのナウムブルク・アム・クヴァイス(現ポーランド領ノヴォグロジェツ(英語版))出身の職人で、芸術家になろうとしたが成功しなかった。自らの夢を託そうとして、父は子供たち(パウル、弟のルドルフ、妹のトーニー)に厳格な音楽教育を施した。1908年にフランクフルトホッホ音楽院に入学し、ヴァイオリンをアドルフ・レーブナー(英語版)に学ぶ一方で、作曲と対位法をアルノルト・メンデルスゾーンとベルンハルト・ゼクレス(英語版)に学んだ。父は子供たちで弦楽三重奏団をくませて演奏させた(パウルはヴァイオリン)[1]

1913年から劇場の管弦楽団のヴァイオリン奏者として音楽家としてのキャリアを開始した[2]。生計のためにコーヒーハウス、ダンスホール、映画館などで働くこともあった[3]。20歳の時にフランクフルト・ムゼウム管弦楽団(フランクフルト歌劇場管弦楽団)のコンサートマスターを務めている。1915年からは師のアドルフ・レーブナーの弦楽四重奏団のヴィオラ奏者をつとめた。第一次世界大戦で父親は戦死した。ヒンデミット本人も1918年に従軍している。この時代に書かれた曲は大部分がヒンデミットの生前には出版されなかった[2]

戦後、ヴィオラのソロ奏者としての活動を行うとともに、多くの作曲を行った。1920年に結成したアマール弦楽四重奏団では、8年間にわたり活動し、1921年に開かれた第1回ドナウエッシンゲン室内音楽祭において『弦楽四重奏曲第3番』作品16の初演を行っている。1923年からはフランクフルト市南部にあるザクセンハウゼン地区にある要塞跡を改装して住んでいた。建物は現在ヒンデミットの記念館になっている[4]。1924年にフランクフルト歌劇場の主席指揮者であったルートヴィヒ・ロッテンベルクの娘のゲルトルート(ヨハンナ・ゲルトルーデ)と結婚した[5]

1927年ベルリンに引っ越し、ベルリン音楽大学の作曲科の教授をつとめている。当時ヴァイオリンのヨーゼフ・ヴォルフスタール(没後はシモン・ゴールドベルク)、チェロエマヌエル・フォイアーマンと結成した三重奏団は有名で、自身が演奏するための弦楽三重奏曲も作曲している。作曲家としてはオペラ、映画音楽、あるいは電子楽器トラウトニウムのための音楽など幅広い活動を行い、自ら演奏するためのヴィオラやヴィオラ・ダモーレのための曲も書いた。ヒンデミットは国際的に有名になり、ダリウス・ミヨーイーゴリ・ストラヴィンスキーフランツ・シュレーカーらと知り合った[6]

ナチス・ドイツ時代のはじめにおいてはヒンデミットの評価は揺れていた。ヒンデミットの音楽はロマン派の作曲家からすると進歩的すぎるが、アヴァンギャルドな立場を取る作曲家たちにとっては穏健で順応的すぎると批判されていた。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}アヴァンギャルドを批判していたナチスにとっては、ヒンデミットは受け入れられないものではなかった。[要出典]しかし、ヒンデミットは当時帝国音楽院の顧問であったのにもかかわらず、上記のようにユダヤ人のヴァイオリン奏者、チェロ奏者と弦楽三重奏を組んでレコーディングをするなどし、ナチスから反感を買っていた。1934年フルトヴェングラー指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によって交響曲『画家マティス』が初演され、大成功した。しかし、同年10月にナチスの機関紙が「堕落の旗手」としてヒンデミットを非難しはじめた(ヒンデミット事件)。12月にヒンデミットはゲッベルスによって「無調の騒音作家」とされた。1936年には公式にヒンデミット作品の演奏が禁止され、1938年の退廃音楽展でも批判された。作品の発表の場を失ったヒンデミットはベルリンから離れることが多くなり、1935年にはトルコ政府からの依頼で、音楽教育の編成に携わり、アンカラ音楽院の開校に尽力した。1937年から1939年まで毎年渡米している[7]Rudolf Wilhelm Heinisch画、クラリネットを吹くヒンデミットのカリカチュア1937年

1938年夏にスイスに亡命し、ヴァレー州ブリューに住んだ[7]。さらに1940年にはアメリカに亡命し、イェール大学の教授としてニューヘイブンに住んだ[8]。アメリカ時代の教え子にはルーカス・フォスノーマン・デロ=ジョイオらがいる[9]。アメリカ時代に作曲された曲には『ウェーバーの主題による交響的変容』、『ルードゥス・トナリス』など、人気の高い曲が多い。


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