パウル・ハウサー
[Wikipedia|▼Menu]

パウル・ハウサー
Paul Hausser
パウル・ハウサー親衛隊中将及び
武装親衛隊中将 (1943年)
渾名パパ (Papa)
生誕 (1880-10-07) 1880年10月7日
ドイツ帝国
プロイセン王国
ブランデンブルク州(英語版) ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル
死没1972年12月21日(1972-12-21)(92歳)
西ドイツ
バーデン=ヴュルテンベルク州 ルートヴィヒスブルク
所属組織

ドイツ帝国陸軍陸軍


プロイセン王国陸軍
ヴァイマル共和国陸軍
鉄兜団
突撃隊
親衛隊武装親衛隊
軍歴1892年 - 1932年
1934年 - 1945年
最終階級 名誉陸軍中将
(Charakter als Generalleutnant)
突撃隊大佐
(SA-Standartenfuhrer)
親衛隊上級大将
(SS-Oberstgruppenfuhrer)
武装親衛隊上級大将
(Generaloberst der Waffen-SS)
除隊後政治活動家
墓所ミュンヘン森林墓地(英語版)
テンプレートを表示

パウル・ハウサー(ドイツ語: Paul Hausser, 1880年10月7日 - 1972年12月21日)は、ドイツ陸軍軍人ナチス親衛隊及び武装親衛隊将軍国家社会主義ドイツ労働者党の党員で鉄兜団の地方指導者も務めた。
概要

国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の組織親衛隊(SS)の軍事部門・武装親衛隊(Waffen-SS)に設立当初より深く関与しており、ナチ党もしくはそのトップであるアドルフ・ヒトラーの私兵ともいうべき武装親衛隊を精強な軍事組織に変貌させたことで知られる。最終階級は親衛隊上級大将及び武装親衛隊上級大将(SS-Oberst-Gruppenfuhrer und Generaloberst der Waffen-SS)。柏葉・剣付騎士鉄十字章受章者。
生涯
陸軍軍人

ドイツ帝国領邦プロイセン王国ブランデンブルク州(英語版)のブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルに生まれる[1][2][3]。父はプロイセン軍人クルト・ハウサー(Kurt Hausser)少佐[3]。母はその妻アンナ(Anna)(旧姓オット(Otto))。

父と同じくプロイセン軍人の道を進み、1892年にポンメルン地方ケスリン(de)の陸軍幼年学校に入学[3]。1896年からベルリンのリヒターフェルデ(de)にあるプロイセン陸軍士官学校へ移り、1899年まで在学した[3][4]

1899年に少尉に任官するとともにプロイセン第155歩兵連隊に入営し、同連隊に1907年まで勤務した[5][2][3][4]。1908年から1911年にかけてプロイセン陸軍大学校に入学[3][4]。1909年から1912年にかけては海軍で空中観測員も務めている[3][5]。1912年から参謀本部に配属となり、地図部門に勤務した[3][4][5]。1913年10月に参謀大尉に昇進するとともにバイエルン王国皇太子ループレヒトの参謀となる[2]

第一次世界大戦がはじまると第6軍団に配属され、第109歩兵師団の参謀将校となる[2]西部戦線ルーマニアバルト諸国で戦った[1][5]

戦後もヴァイマル共和国軍に残留[1][6]。1921年から1923年まで第2師団参謀を務め、ついで1923年から1925年まで同師団第4連隊第3大隊長となり、さらに1925年から1926年末まで第2軍管区司令部(Wehrkreis-Kommando II)(第2師団)の参謀長となる[3][6]。1927年から1930年まで第10歩兵連隊の連隊長に就任[3][6]。さらに1930年から1932年にかけてはマグデブルクの第4軍管区歩兵指導者(Infanteriefuhrer IV)を務めて、訓練を担当した[6][3][7][8]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:75 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef