パウル・ティリッヒ
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Paul Johannes Tillich
パウル・ヨハネス・ティリッヒ
(パウル・ヨハネス・ティリヒ)
[1]
ジェームス・ロザティ(英語版)製作の胸像
ニューハーモニー (インディアナ州)(英語版)。
生誕1886年8月20日[1]
ドイツ帝国、ランドクライス・グーベン(ドイツ語版)
死没 (1965-10-22) 1965年10月22日(79歳没)[1]
アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ
墓地 アメリカ合衆国インディアナ州
出身校ベルリン大学[1]
マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク[1]
職業神学者
大学教授、組織神学
ユニオン神学校ハーヴァード大学
宗教キリスト教プロテスタント
受賞ドイツ書籍協会平和賞(1962)
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パウル・ティリッヒ(Paul Johannes Tillich、1886年8月20日 - 1965年10月22日)は、20世紀のキリスト教神学に大きな影響を与えたドイツプロテスタント神学者組織神学宗教社会主義の思想で知られる。20世紀においてカール・バルトと並ぶ神学者であり、その影響は広く哲学思想美術史に及ぶ。
生涯

ベルリン近郊の村で牧師の子として誕生した。ベルリン大学に進学し、そこで神学や哲学を学んだ。

1907年にエマヌエル・ヒルシュ(ドイツ語版)と知り合い、交友を始める。しかし、社会主義の深化を目指す宗教社会主義を展開したティリッヒに対し、ヒルシュは、親ナチスの姿勢を鮮明にし、両者は激しい論争を繰り広げた。

ヒトラーが政権を握った後、迫害を受け、1940年[1]アメリカ亡命帰化した。ユニオン神学校ハーヴァード大学などで教授を務めた。パウル・ティリッヒの墓石。
ニューハーモニー (インディアナ州)。
思想
応答する神学

ティリッヒの体系は、相関関係の原理を軸として構築されている。彼は、宗教文化教会社会、神学と哲学などの境界線上に立ちながら、それらを相関させ、両者の深い次元での統合を目指す。人は、聖書のメッセージを永遠の真理として、その中に閉じこもることもできる。しかし、ティリッヒは、人が現にある時代や状況の中で問われる問いに対して、キリスト教の真理によって答えることが神学の役目であり、さらに「哲学の問いと神学の答え」という関係はそこから生まれると説いた。 そして、それは彼が思想史の中で用いている概念を理解しておくと理解しやすい。かつて宗教が人々に対して強制的な力を行使していた時代があった。イエスルターによる変革前の宗教者のことを考えればいい。このように、信仰が外部から強制されているような状態を他律(ヘテロノミー)と呼ぶ。他律は、独善的であり、人の自由を圧迫する。しかし、人は、それに対していつまでも服従していることはない。そこで、人間が自らの力によって立つ状態が自律(アウトノミー)である。自律は、理性に従い、個人の尊厳を掲げる。言うまでもなく近代から現代が自律の時代である。しかし、やがて理性と個の力を信じる自律は、孤独に陥り、の意味や目的を見失ってしまう。つまり、自律的理性は、それだけでは生の意味を見つけることはできないのである。 そこで、他律と自律を乗り越え、最高の規範となるものは、神律(ドイツ語版、英語版)(セオノミー)である。神律とは、自己の有限性を自覚するとともに、自己の根底を透視し、そこに働く神的な力に従う状態である。神律は、他律のように外部から押し付けられたものではなく、自己の中から出たものであり、また自律のように孤独に彷徨い出ることもなく、自己を完成する。そのような神律に人を導くのが、ティリッヒの神学の目的である。人は、それ自身の内に生に対する究極の答えを持たない「大きな問い」である。その問いに対し、神学で答えることで「哲学の問いと神学の答え」という関係が成立する。
究極なるもの

ティリッヒは宗教を定義して究極の関わりという。つまり、キリスト教に限定することなく、人が何かに究極的に関わり、それによって根本から支えられているとき、そのようなものが宗教と呼ばれるのだ。このような宗教観は一般的には非宗教的と考えられる人々をも包み込んで、宗教が人間にとって決定的なものであるということを示す。教会に通うかとか、お祈りをするかとかいったことをしない人間も、その存在を支える何かを求める限りは宗教的なのであり、その意味で人が生きる限り宗教はなくなることはない。宗教がそのようなものであるならば、その関わりとは絶対的な無制約者を体験することでなくてはならない。しかし制約された、本来究極的でないものを究極的とすることから人は挫折し、絶望に陥る。それでは真に究極的な関心を払うべきものとはなにか。それは「私たちの存在、あるいは非存在を決定するもの」だとティリッヒは述べる。存在するかしないか、生きるか死ぬかということこそまさに存在する者、生きるものにとって究極の問題である。ならばそれを決定するものとはあれこれの存在のうちのひとつではなく、存在と非存在を超えて存在の根拠となるようなものだ。だから神の神とは存在を存在たらしめる存在の力、あるいは存在の根底、存在それ自体だとティリッヒは言う。

天上に住まって人を見下ろす人格神(英語版)というような考えは退けられる。そのような神は人に対して別のところに神がいるという図式から生まれたものだが、神はわれらの内にて働く存在の力だという見方からすれば、対象としての神は想像に過ぎず、それを崇めることは偶像崇拝である。神について語ることは象徴を通してのみ可能である。有限なる我々は無限なるものを直接に表現することはできない。したがって宗教的言説は象徴として、それ自体を超えつつ、他の何ものかを指し示すものとして理解されねばならない。では、キリスト教はティリッヒにおいてどのように捉えられるのだろうか。自律のみに拠るならば人間は存在の根底から疎外されるというが、それは人間が有限だからだ。人が自由な決断をすると、現にあるもの(実存)は本来あるべきもの(本質)から転落する。つまり、有限な存在は何かを決めてしまえば他の可能性を限定してしまうので、本質と一致できないのだ。実存は個別と普遍、流動と形式、自由と運命の緊張の上に立たされ、根源的な不安に脅かされる。本質の実存への転落は聖書ではアダムの堕罪として象徴的に語られている。人間の神からの離反、すなわちとは疎外に他ならない。このような実存の悲劇を克服するのがキリストだとティリッヒは述べる。本質的神人性がキリストとして現れ、実存のうちにありながら実存をひきうけて、本質との断絶を克服したということを信じることは、キリストを本質と実存の架け橋となった新たなる存在、新存在として受け容れることだ。新存在は分裂、紛争、自滅、無意味、絶望を克服し、和解、再結合、創造、意味、希望をもたらす。キリストは有限と無限、制約者と無制約者の仲保者である。彼は十字架にかかって自己否定し、他の存在と同じように「否」の上に立った。しかし復活によりをも克服し、新存在として生まれたのである。
存在への勇気

ティリッヒは信じるということは疑うことと切り離すことができないと考えている。神は対象として確かめることができないから、もちろん理論的に証明することはできず、信仰は実存的な決断にならざるを得ない。よって不確実性を内に孕んでおり、誠実さがあれば疑いは避けて通れないと言える。しかし疑いのうちにおかれながらも、それにもかかわらず信じることは、否定のうちから発してしかも否定を凌駕する大いなる肯定であり、疑いをただ避けようとする信仰とはまた別の信仰である。疑うことは信仰にとってマイナスでしかないという考えは、疑いに置かれたものにとって罪の意識を強めるばかりだが、疑いがあることはむしろ人にとって自然だとティリッヒは考える。非存在は存在と同様に根本的であり、人は絶えず非存在の脅威におびやかされている。しかし、だからこそ存在が無に抗して自己を肯定すること、勇気が必要とされる。勇気には個人としての自己の肯定である個人化の勇気と包括的部分としての自己の肯定である参与の勇気とがあるが、無の不安を引き受けることのできる大いなる肯定を個人や社会から得るのには限界があるため、それらを超越する存在の力に根ざしていなければならない。懐疑に抗して信じることも、非存在に抗して存在する(生きる)ことも、根は存在の力から発する。存在の力、すなわち宗教経験の世界のうちでの「個人化」は神と人との人格の交わりであり、ここでの「参与」は存在の根底へと参与することで合一へと接近する神秘主義である。


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