パウル・クレー
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「クレー」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「クレイ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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パウル・クレー
Paul Klee


誕生日 (1879-12-18) 1879年12月18日
出生地 スイス、ベルン近郊ミュンヘンブーフゼー[1]
死没年1940年6月29日(1940-06-29)(60歳)
死没地 スイス、ムラルト
運動・動向アウトサイダーアート、プリミティヴィスム、 表現主義バウハウスシュルレアリスム
芸術分野絵画
教育ミュンヘンの美術アカデミー
代表作The Twittering Machine (1922)
Fish Magic (1925)
Viaducts Break Ranks (1937)
他、10000点以上の絵画、ドローイング、エッチング
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パウル・クレー(Paul Klee, 1879年12月18日 - 1940年6月29日)は、20世紀スイス画家、美術理論家。

ワシリー・カンディンスキーらとともに「青騎士 (ブラウエ・ライター)」を結成し、バウハウスでも教鞭をとった。その作風は表現主義超現実主義などのいずれにも属さない、独特のものである。
略歴

1879年、スイスの首都・ベルン近郊のミュンヘンブーフゼーに生まれた。父は音楽教師、母も音楽学校で声楽を学ぶという音楽一家であった。クレー自身も早くからヴァイオリンに親しみ、11歳でベルンのオーケストラに籍を置くなど、その腕はプロ級であり、1906年に結婚した妻もピアニストであった。クレーの音楽に対する深い理解はバッハモーツァルトらの古典音楽からストラヴィンスキーヒンデミットら現代音楽にまで幅広く及び、クレーの作品の画題にはポリフォニーフーガといった音楽用語が用いられているものもある。

その一方で絵画への関心も既に幼少の頃から芽生えていた。また文学にも興味を持ち、創作に手を染めたこともあったが、迷った末にクレーは音楽や文学ではなく絵の道を選ぶことになる。ただ絵に専念することを決めた後も音楽や文学への関心は薄れることがなく、一日にヴァイオリンを何時間も演奏したり、また詩を作って日記に記したりもしている。18歳の頃から書き始めた日記は日々の出来事や創作した詩を書くだけのものに留まらず、クレーの絵画及び芸術に対する考えや方向性を鍛え上げていく場となった。

1898年、当時はパリと並ぶ芸術の都だったミュンヘンに出て、2年後に美術学校に入学し、象徴主義の大家フランツ・フォン・シュトゥックの指導を受ける。なお、シュトゥックはカンディンスキーの恩師でもあった。ただ学校の画一的な教育はクレーにあわず、1年後の1901年には退学している。同年から翌年にかけてイタリアを旅行してルネサンスバロックの絵画や建築を見て回り、特に建築の純粋さから多くを学んだ。

1906年、リリー・シュトゥンプフと結婚してミュンヘンで新婚家庭を営み、翌年には息子フェリックスが誕生した。まだ無名の画家だったクレーには収入源が無く、リリーがピアノ教師として働くことで家計を支え、代わりにクレーは育児をはじめとする様々な家事に携わった。フェリックスを育てる上でのクレーの手による詳細な育児日記が残されている。フェリックスはのちに「パウル・クレー財団」を設立し、スイスでのクレー作品の保存に尽力した。

クレーは初期には風刺的な銅版画やガラス絵などを試み、またアカデミックな手法の油絵を残している。1906年以降、ミュンヘン分離派展に銅版画を出品し、1910年にはベルン等で個展を開く。この頃はセザンヌゴッホらの作品に感銘を受けつつ独自の道を模索していた。またカンディンスキー、マルクらと知り合って特にマルクとは親友となり、彼らが立ち上げた「青騎士」展には第2回展から参加した。1912年にはパリでロベール・ドローネと出会い(またこの時にピカソマティスらの作品に接している)、その後彼のエッセイ『光について』をドイツ語に訳している。この前後に光と色彩のフォルムや線描についての探求が始まり、特に線描については風景画において輪郭のみによる描写の単純化が進み、次第にその輪郭の線そのものが重視され、その自由な動きが追求されることになった。その成果はヴォルテールの小説『カンディード』の挿絵として描かれた一連の絵に結実するとともに、その後のクレーの絵の抽象化や独自の画風の確立にあたっての原点の一つとなる。

クレーの画業において転機となったのは1914年春から夏にかけてのチュニジア(北アフリカ)旅行であった。この旅行に感銘を受けたクレーは鮮やかな色彩に目覚め、作風は一変した。「色彩は、私を永遠に捉えたのだ」という言葉が、チュニジアでの体験を端的に表す一節として日記に残されている。クレーの画集等で紹介されている色彩豊かな作品は、ほとんどがこの旅行以後のものである。またこの頃からクレーは抽象絵画にも踏み込み、その後の表現の幅は飛躍的に拡大した。1915年にはリルケと知り合い、互いの作品に関心を抱きあっている。

第一次世界大戦が勃発すると多くの芸術家も兵士として動員され、クレーの知人であるマルクやマッケらは戦死した。特に親友マルクの死はクレーに大きな衝撃を与えた。クレー自身も1916年から1918年にかけて従軍しているが、クレーが新進の画家として次第に認められるようになるのもこの頃からである。この時期のクレーは絵に文字を取り込む実験なども行いながら、具象とも抽象ともつかない、あるいはその両面を備えた絵を手がけていた。その後のクレーの作品の多くに見られる、多分に抽象的でありつつ「かたち」(それは明らかに何らかの事物を表していることもあれば、より純化され特定の事物とは対応していないこともある)が常に意識されて描かれているという傾向は、既にこの頃に懐胎されている。

1919年にはミュンヘンの画商ゴルツと契約を結び、翌1920年にはゴルツの画廊で大回顧展が開かれた。またエッセイ『創造的信条告白』を発表し、現代美術の最前線に位置する画家の一人として知られるようになる。同年にヴァルター・グロピウスの招聘を受け、翌1921年から1931年までバウハウスで教鞭をとった。この時期にはニューヨークやパリで個展が開かれ、第1回シュルレアリスム展に参加するなど(もっとも、クレーの側からのシュルレアリスムへの関与はこの一回だけであった)クレーの名は国際的に知られるようになる。またロシアから戻って同じくバウハウスの教授となったカンディンスキーとは、一時期アトリエを共有しており、オットー・ネーベルクルト・シュヴィッタースらとも親交を深めた。


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