バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群
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バーミヤン渓谷の
文化的景観と古代遺跡群
アフガニスタン

バーミヤン渓谷の石仏と石窟(1976年)
英名Cultural Landscape and Archaeological Remains of the Bamiyan Valley
仏名Paysage culturel et vestiges archeologiques de la vallee de Bamiyan
面積158.926498 ha
(緩衝地域 341.950012 ha)
登録区分文化遺産
登録基準(1), (2), (3), (4), (6)
登録年2003年
備考危機遺産(2003年 -)
公式サイト世界遺産センター(英語)
地図

使用方法表示
破壊前後の石仏破壊後の石仏

バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群(バーミヤンけいこくのぶんかてきけいかんとこだいいせきぐん)は、アフガニスタンの首都カーブルの北西230kmの山岳地帯に位置するバーミヤン渓谷(バーミヤーン渓谷)に設定されたユネスコ世界文化遺産危機遺産指定中)。
歴史

バーミヤン渓谷は古代以来の都市であるバーミヤーン(バーミヤン)の町を中心とするヒンドゥークシュ山脈山中の渓谷地帯で、標高2500mほどの高地に位置する。

古代から存続する都市バーミヤーンの近郊には、1世紀からバクトリアによって石窟仏教寺院が開削され始めた。石窟の数は1000以上にものぼり、グレコ・バクトリア様式の流れを汲む仏教美術の優れた遺産である。

5世紀から6世紀頃には高さ55m(西大仏)と38m(東大仏)の2体の大仏をはじめとする多くの巨大な仏像が彫られ、石窟内にはグプタ朝のインド美術やサーサーン朝ペルシア美術の影響を受けた壁画が描かれた。バーミヤーンの仏教文化は繁栄をきわめ、630年の仏僧玄奘がこの地を訪れたときにも依然として大仏は美しく装飾されて金色に光り輝き、僧院には数千人の僧が居住していたという。

19世紀以降、アフガニスタンが国際社会に組み込まれ、西洋人や日本人が山岳地帯の奥深くまで探検に訪れるようになると、バーミヤーン遺跡は大仏を始め多くの仏教美術が残されていたことから俄然注目を集めることとなった。20世紀には多くの学術調査が実施されてその価値は高く評価され、一躍アフガニスタンの誇る世界的な文化遺産とみなされるに至る。

しかし、1979年ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻以来アフガニスタンで続いてきたアフガン紛争によって大きな被害を受けた。2001年には当時のアフガニスタンを支配していたターリバーン政権の手により爆破され、遺跡は壊滅的な被害を受けた。紛争終結後の調査により、一連の混乱と破壊により大仏のみならず、石窟の壁面に描かれた仏教画のおよそ8割が失われたと報告されている。

日本では当時ユネスコ親善大使だった平山郁夫はこれに抗議して危機に瀕する文化財を文化難民として保護することを提案し、流出文化財保護日本委員会を創設した。2002年以来、日本が181万ドルを拠出する仏龕の修復事業をはじめ、国際支援による修復が進められている。

2015年6月15日には中国の研究チームが3Dでの大仏の復元を行った[1]

2021年8月、ターリバーンがアフガニスタン全土を再び制圧、バーミヤンの古代遺跡も再びターリバーンの管理下に置かれた[2]
ターリバーンによる破壊

1979年のソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻以後は、アフガニスタンへの外国人の立ち入りは難しくなり、外国の学術機関による調査および保存事業は中断した。1980年代以降に発生した内戦においてバーミヤーン市はハザーラ人勢力の拠点となり、90年代には内戦の激化にともない遺跡の周囲にも多くの地雷が埋設されるなど状況は悪化し遺跡の破壊が憂慮されていた。

バーミヤーンはターリバーンによって1998年に占領された。ターリバーン政権がアフガニスタンの大部分を平定したことにより内戦の終結が期待されたが、その一方でターリバーンはイスラム教の戒律の下にパシュトゥーン人の古い慣習を国民に強制し人権侵害との非難を受け、アメリカ合衆国に対する国際テロの指導者とみなされていたウサーマ・ビン・ラーディンを庇護するなど国際社会において孤立しつつあった。

2001年2月26日にターリバーンはイスラムの偶像崇拝禁止の規定に反しているとしてバーミヤンの大仏(磨崖仏)を破壊すると宣言した。この声明に対して世界中の政府及び国際機関に加え、諸外国のイスラム指導者たちからも批判が寄せられた。国際連合総会は、全会一致で破壊を中止する決議A/RES/55/243を採択した。

ターリバーンの高官だったアブドゥル・サラム・ザイーフによると、中国、スリランカ、日本の代表団が破壊の中止を求めて訪れており[3]、特に日本国政府は積極的かつ具体的で大仏の国外への移転や視認できないように隠すことを提案していたとされる[4]。しかしターリバーンはこれら国際社会や他のイスラム世界からの批判を無視し、3月2日に2体の大仏の破壊を始めた。

破壊の様子が映像で撮影されており、撮影者もしくは他の人物が「アッラーフ・アクバル」と唱えている中で爆破される大仏の映像は、世界中に配信された。

2012年5月16日、ターリバーン政権勧善懲悪省のカラムディン元長官は単独で記者会見を行い、この破壊について「大仏破壊は正しい決断ではなかったと今だから言える」「当時の政権幹部は望んでいなかったが、外国から来た兵士たちが政権より力を持っており、彼らが決めた」と述べた[5]

ターリバーンの文化財保護に対する意識の欠如が強く批判される一方で、内戦中に多くの餓死者が出ていたアフガニスタンに対して国際社会が無関心であったことを批判する者もいる。イラン映画監督であるモフセン・マフマルバフの作品『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ[6]においてマフマルバフは、100万人の餓死者よりも、一つの仏像の破壊が、世界に注目されたことへの苛立ちを表明している。


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