バーブル
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パキスタンの巡航ミサイルについては「バーブル (ミサイル)」をご覧ください。

バーブル
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B?bur
ムガル皇帝
バーブル(自伝『バーブル・ナーマ』の挿絵に収録されている肖像画)
在位1526年4月20日 - 1530年12月26日

全名ザヒールッディーン・ムハンマド・バーブル
出生1483年2月14日
アンディジャン
死去 (1530-12-26) 1530年12月26日(47歳没)
アーグラ
配偶者アーイシャ・スルターン・ベギム
 マースーマ・スルターン・ベギム
 マーヒム・ベギム
子女フマーユーンなど
王朝ムガル朝ティムール朝
父親ウマル・シャイフ
母親クトルグ・ニガール・ハーヌム
宗教イスラーム教スンナ派
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バーブル(ペルシア語: ????????? ???? ?????‎、?ah?r al-D?n Mu?ammad B?bur、1483年2月14日[1] - 1530年12月26日[1][2])は、北インドムガル帝国の創始者であり初代君主(在位:1526年 - 1530年)。もとはティムール朝サマルカンド政権の君主(在位:1497年 - 1498年)でもある。

16世紀初頭に中央アジアからインドに移り、ムガル帝国を建国した。名前の「バーブル」はトラを意味する[3][4]。バーブルはティムールの三男ミーラーン・シャーの玄孫であり、母方の祖父であるモグーリスタン・ハン国の君主ユーヌスチンギス・カンの次男チャガタイの後裔にあたる。

軍事力に優れた指導者、優れた文人として評価されている[1][5]。自らの半生を著述した回想録『バーブル・ナーマ』は文学性・史料的価値を高く評価されており、多くの言語に翻訳された[6]
生涯

バーブルの生涯は中央アジア時代、カーブル時代、インド時代の三期に分けられる[7][8]
少年期

1483年にフェルガナ地方のアンディジャンで、バーブルはフェルガナの領主ウマル・シャイフの長子として生まれる[7][8]。バーブルが誕生した当時のティムール朝は2つの政権に分裂しており、バーブルの一家は祖父のアブー・サイードが樹立したサマルカンドの政権に属していた[9]

1494年に父のウマル・シャイフが城内の鳩小屋が倒壊する事故に巻き込まれて急死した後、バーブルは家長の地位とフェルガナを継いだ[10]。バーブルの父方の伯父であるサマルカンドの君主スルターン・アフマドと、母方の叔父であるモグーリスタン・ハン国の君主マフムード・ハンはウマル・シャイフの死を知ると、バーブルが継いだ領地を獲得するためにフェルガナに侵攻した。バーブルは祖母のエセン・ダウラト・ベグムと臣下の補佐を受けて、叔父たちの攻撃に打ち勝つ[11]。叔父たちの攻撃を撃退した後、アンディジャンで父の葬儀を執り行った。

1495年に従兄弟のバイスングルがサマルカンドの支配者の地位を継いだ後、サマルカンドの宮廷ではバイスングルを支持する派閥とバイスングルの弟スルターン・アリーを支持する派閥が争っていた[12]1496年にバーブルは混乱するサマルカンドへの遠征を行い、スルターン・アリーと同盟してバイスングルに対抗するが、遠征は失敗に終わる。翌1497年にバーブルは再びサマルカンド遠征を実施し、窮乏したバイスングルは北方のウズベクシャイバーニー朝)の指導者ムハンマド・シャイバーニー・ハンに援軍を要請する。サマルカンド近郊にシャイバーニーの軍が現れた時、バイスングルは援助を拒んで単独でサマルカンドを防衛し、7か月の包囲の末にバイスングルはサマルカンドを放棄してクンドゥーズに逃走する[13]。バーブルは主を失ったサマルカンドに入城し、1497年11月末にスルターンに即位する。しかし、臣下のスルターン・ムハンマド・タンバルがアンディジャンで起こした反乱を鎮圧するためにバーブルは帰国せざるを得なくなり、サマルカンドでの治世は約100日で終わる[14]

1年半から2年近くの期間、本拠地を失ったバーブルはホジェンドを拠点としてアンディジャン、サマルカンドに出兵するが事態は進展せず、1499年夏に支持者の手引きによってようやくアンディジャンに入城することができた[15]。アンディジャン奪還後も、バーブルの弟ジャハンギールを擁立するタンバルとの争いは続いた[16]1500年2月にタンバルと休戦協定を締結するが、バーブルの陣営ではタンバルの派閥に属するベグ(司令官)が権勢をふるっていた[17]
サマルカンドの占領、故郷の喪失

一方、スルターン・アリーの占領下に置かれたサマルカンドはシャイバーニーから圧力を加えられており、1500年にスルターン・アリーはシャイバーニーとの和平を図って、シャイバーニーにサマルカンドを明け渡した[14]。バーブルはサマルカンド陥落に先立つ1500年5/6月にサマルカンドの廷臣の招聘に応じて進軍しており、サマルカンドがシャイバーニーの占領下に置かれた後も町の近郊に留まって奪還の機会をうかがっていた。こうした状況下で、サマルカンド内で強い影響力を持つウラマー(神学者)のホジャ・アブリメカリムは、バーブルにサマルカンド開城を手引きする書状を送った。夜間に70-80人のバーブルの部下がサマルカンド城内に侵入して城門を開け、城外に陣取っていたシャイバーニーは形勢が不利だと考えて退却したバーブルはアブルメカリムらサマルカンドの有力者や高官に迎え入れられ、王に擁立された[18]

しかし、ウズベクによる略奪のために食糧が欠乏したサマルカンド周辺は飢餓に襲われており、バーブルは兵士を養うことができないために軍隊を解散しなければならなかった[18]。バーブルの窮状を知ったシャイバーニーは、精鋭を率いて再びサマルカンドに進攻する。1501年、援軍を待ちきれなかったバーブルはザラフシャン河岸でシャイバーニーを迎撃するがサリ・プルの戦いで敗北し、サマルカンドに立て籠もった。食糧が欠乏したサマルカンド市内は無政府状態に陥り、多くの市民が町から脱走した[19]。飢えに悩まされたバーブルは、4か月の籠城の末にサマルカンドを放棄しなければならなかった[20][21]。姉のハンザーダ・ベギムをシャイバーニーの元に送る屈辱的な条件を飲んで和平を結び、バーブルは叔父のマフムード・ハンが統治するタシュケントに退却した[22]

タシュケントでは困窮した生活を送り、多くの人間がバーブルの元を去った[23]。バーブルはマフムードの支援を受けてスルターン・ムハンマド・タンバルと戦うが、好機を逃して敗北を喫する。ある戦闘でバーブルは右脚を矢で射抜かれて負傷し、アフスィ近郊の戦闘では惨敗し、1人で山中を逃走した。

1503年4月にバーブルはタシュケントを攻撃したシャイバーニーに敗れて撤退し、マフムードとその弟アフマド・アラクは捕らえられてモグーリスタンに追放された。翌1504年4月にシャイバーニーはタンバルを破ってアンディジャンを占領し、故郷の喪失を知ったバーブルは南のホラーサーン地方への移動を決意する[24]。1504年6/7月にバーブルは少数の部下を率いてアフガニスタン方面に南下するが、一行はぼろぼろの衣服を着、野営のための十分な設備も持っていなかった[25]。移動中、ウズベクから逃れようとした多くのモグール人(モンゴル人)がバーブルの軍に合流する[24]。また、南下するバーブルの元にヘラート政権の君主フサイン・バイカラから防備の協力を求める親書が届くが、バーブルはシャイバーニーに対して攻勢に出ることを企てていたため、共同作戦は実現しなかった[26]。バーブルはヒンドゥークシュ山脈を越え、アルグン部出身の領主ミールザー・ムキームが領有するカーブルを包囲した。ムキームは抵抗をすることなくバーブルに臣従とカーブルの譲渡を申し出、1504年9月にバーブルはカーブルを征服した[27]
カーブルへの移動

カーブル征服後、バーブルは弟のジャハンギールにガズニー、ナーシルにニングナハールを授与する[26]。バーブルは新たな拠点としたカーブルの統治に力を入れ、パシュトゥーン人(アフガン人)やハザーラ人などの町の周辺に居住する多種の民族に対して武力、懐柔策の両方を使って対応した[28]。また、バーブルはカーブルに10のバーグ(庭園)を建設し、宮殿の役割を果たす天幕を庭園に設置していた[29]

1505年1/2月にバーブルは略奪と戦利品の獲得を目的としてヒンドゥスターン(北インド)遠征を実施し、中央アジアと全く異なるインドの人間と自然に強い衝撃を受けた[30][31]。しかし、親族と家臣から反対を受けたために、インドでの本格的な征服事業を開始することはできなかった[32][33]。1505年6/7月にバーブルは遠征から帰還するが、その直後に母クトゥルク・ニガール・ハヌムが没する[34]。母の死後にバーブルの母方の義理の祖母であるシャー・ベギム、従兄弟にあたる歴史家のハイダル・ミールザーら母方の親族がバーブルを頼り、カーブルに滞在した。

1506年5月にバーブルはフサイン・バイカラのシャイバーニー攻撃の呼びかけに応じてヘラートに向かうが、フサインはバーブルと合流する前に没していた。10月にバーブルはフサインの跡を継いだバディー・ウッザマーンムザッファル・フサインの兄弟とムルガブで合流し、歓迎を受けた[35]。フサインの死後もティムール朝の連合軍はシャイバーニーに包囲されたバルフに向けて行軍を続けたが、連合軍の到着前にバルフは陥落した。シャイバーニーはティムール朝との決戦を避けてマー・ワラー・アンナフルに退却したが、追撃は行われず、連合軍は解散した[36]

遠征に参加した王子たちはそれぞれの領地に戻り、バーブルにカーブルに帰還しようとしたが、周囲の勧めによってヘラートを訪れた[35]。ヘラートを訪れたバーブルは宴席に参加し、市内外の多くの名所を観光した。『バーブル・ナーマ』にはヘラートの美麗な景観、町に多くの優れた人材が集まる様子が記録されている[37]。バーブルはヘラートでの越冬を勧められたが、12月末にヘラートを発ってカーブルに帰国の途に就いた。

帰国する一行は移動距離が短い山道を進んだが、道中で吹雪と強風に見舞われる。バーブルは部下とともに雪をかき分けて道を作る作業に参加し、狭い洞窟の外で夜を明かして部下と苦労を分かち合った[38]。後年にバーブルは一週間近くにわたる雪中の行軍を回顧して「生涯でほとんどなめたことのない苦しみ」と述べている[39]。1507年2月にバーミヤーン西の町ヤカ・オウランに到着したが、間も無くカーブルで反乱が起きた報告に接する[40]。カーブルでは、シャー・ベギムが実の孫であるミールザー・ハンをカーブルの支配者とするために町の内城を包囲しており、カーブルに着いたバーブルは短時間で反乱を鎮圧した。反乱を鎮圧したバーブルは、シャー・ベギムを初めとする反乱者に対して寛大な態度を示した[41]。ミールザー・ハンと彼に協力したムハンマド・フサイン・ドゥグラトをホラーサーンに追放し、シャー・ベギムに処罰は下さなかったが、彼女はバダフシャーンに移住した。

1507年6月にヘラートはシャイバーニー朝によって征服される。
サマルカンド奪還の失敗

1508年からバーブルはパーディシャー(パードシャー、「皇帝」の意)の称号を用いる[42]。ヒンドゥスターン遠征後に征服地から租税が送られてくるようになり、おそらくバーブルは権威と威風による支配の有効性に気づいた[43]。パーディシャーを称した後、バーブルは部下や使節などに衣服を下賜することが多くなった[43]。1508年3月に長男フマーユーンが誕生し、翌1509年に次男カームラーンが誕生する。

1510年にシャイバーニーがサファヴィー朝イスマーイール1世との戦いで敗死した後、1511年にバーブルは再び中央アジア遠征を実施する。バーブルはクリャブ、クンドゥーズ、バダフシャーンを奪回したが、独力での勝利は不可能だと考えていた[44]


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