バーバラ・ヘップワース
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バーバラ・ヘップワース

デイム・バーバラ・ヘップワース(Dame Barbara Hepworth, DBE1903年1月10日 - 1975年5月20日)は、イギリス芸術家彫刻家第二次世界大戦中、ベン・ニコルソンナウム・ガボのような芸術家とともに、セント・アイヴズに住む芸術家のコミュニティで主導的な役割を果たした。
人物・来歴
子ども時代と教育

ジョスリン・バーバラ・ヘップワースは、ハーバートとガートルードのヘップワース夫妻の長子として1903年1月10日にイギリスのウェスト・ヨークシャー州ウェイクフィールドで生まれた[1]。父は土木技師で、1921年にウェスト・ライディング・カウンティのサーベイヤーになった[1]上昇志向のある家族であり、家長であった父は娘が十分生来の才能を生かせるようにしようと決めた[2]。バーバラはウェイクフィールド女子高等学校に通った後、1920年から奨学金を得てリーズ美術学校で学んだ。ここで同窓のヘンリー・ムーアと会った[1]。友人となったふたりの間には仕事上の友好的なライバル関係ができ、これは長年にわたり続くことになった。両人の作風である穴のあいた彫刻は、ヘップワースのほうが最初に作った。両人はモダニズム彫刻の先端を行く芸術家となる。

ヘップワースは男社会に生きる女性としての自覚を常に持っていた[3]。ヘップワースはカウンティの奨学金を得て1921年からロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートで学び、1924年に学位を得た[4][5]
若き芸術家

ロイヤル・カレッジ・オブ・アートで学んだ後、ヘップワースは1924年からウェスト・ライディングの留学奨学金でイタリアフィレンツェに旅した[6]。ヘップワースはローマ賞の次点候補にもなったが、優勝は彫刻家のジョン・スキーピングであった[6]シエナローマをともに旅した後、ヘップワースは1925年5月13日にフィレンツェでスキーピングと結婚した[1]。イタリアでは、ヘップワースは熟練した彫刻家であるジョヴァンニ・アルディーニに師事し、大理石彫刻を学んだ[1]。ヘップワースとスキーピングは1926年にロンドンに戻り、自分のフラットで共同個展を開いた[1]。息子のポールが1929年、ロンドンで生まれた[6]

ヘップワースの初期の作品はヨーロッパ大陸の芸術運動や抽象化から強い影響を受けているものであった。1933年にヘップワースはベン・ニコルソンフランス旅行をし、ジャン・アルプパブロ・ピカソコンスタンティン・ブランクーシのスタジオを訪問した[1]。ヘップワースはのちにパリに基盤を持つ芸術運動である「抽象・創造」(Abstraction-Creation) にかかわるようになった[7]。1933年にヘップワースはニコルソン、ポール・ナッシュ、批評家のハーバート・リード、建築家のウェルズ・コーツと「ユニット・ワン」芸術運動の共同創始者となった[8]。この運動はブリテンの芸術において抽象化とシュールレアリズムを結合させようとするものであった[8]

ヘップワースは英国の人々に大陸の芸術家のことを伝える活動も行った。1937年、ヘップワースは構成主義の芸術家に関する300頁もある著書で、ニコルソン、ナウム・ガボ、レスリー・マーティンが編集してロンドンで刊行されることになった Circle: An International Survey of Constructivist Art のレイアウトデザインを手がけた[9]

ヘップワースは北ロンドンのハムステッド登記所で1938年11月17日にベン・ニコルソンと結婚した。ニコルソンはその前に妻のウィニフレッド・ニコルソンと離婚していた[10]。1934年にヘップワースとニコルソンの間にレイチェル、サラ、サイモンの三つ子が生まれた。レイチェルとサイモンも長じてから芸術家になった。夫妻は1951年に離婚した[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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