バーバラ・カートランド
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バーバラ・カートランド
Barbara Cartland

誕生メアリー・バーバラ・ハミルトン・カートランド
(Mary Barbara Hamilton Cartland)
(1901-07-09) 1901年7月9日
イングランド バーミンガム、エッジバストン
死没 (2000-05-21) 2000年5月21日(98歳没)
ハートフォードシャー、ハトフィールド
職業小説家
言語英語
国籍 イギリス
活動期間1925年 - 2000年
ジャンルロマンス
配偶者アレクサンダー・マッコーコデール (1927?1933)
ヒュー・マッコーコデール (1936?1963)
子供スペンサー伯爵夫人レイン
イアン・マッコーコデール
グレン・マッコーコデール
親族ロナルド・カートランド(弟)
ダイアナ元皇太子妃(義理の孫)
ウィキポータル 文学
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バーバラ・カートランド(Dame Mary Barbara Hamilton Cartland、1901年7月9日 - 2000年5月21日)は、イギリス小説家。歴史家、脚本家、政治演説者、講師のほか、テレビやラジオで司会者なども務めた。多作で知られ、20世紀で商業的な成功を収めた作家の1人である。作品は723作にも上り、36か国語に翻訳され、ギネス世界記録に「1年で最も多くの小説を出版した」記録で1976年から登録されており、その記録は未だに破られていない。バーバラ・カートランド名義では数え切れないほどのロマンス小説を執筆したが、結婚後の名であるバーバラ・マッコーコデール名義の作品も存在する[1]。執筆した作品は700冊以上で[2]、小説だけでなく演劇作品詩歌ドラマ、雑誌の記事、オペレッタなど、売り上げは7億5000万部以上と伝えられ[2]、別の情報では10億部とも言われる[3]。19世紀のヴィクトリア朝純愛ロマンスが得意で、作品のカバーなどに肖像画風のデザインを採用していた。

カートランド・プロモーションズのトップとして、2000年に亡くなるまでロンドンで最も有名な名士、イギリスでもっとも有名なタレントであった[2]DBE、CStJ。
経歴

イングランドバーミンガム、エッジバストンに、イギリス軍の士官だったバートラム・カートランド[4]1876年 - 1918年)と、メアリー・“ポリー”・ハミルトン・スコーベル(1877年 - 1976年)の第一子メアリー・バーバラ・ハミルトン・カートランドとして誕生。姉弟の中で唯一の女子だった。カートランド家はもともとは生活に苦労しない程度の中流階級の家庭であったが、第一次世界大戦出征した父がフランドルで亡くなって間もなく、資本家だった父方の祖父ジェームズ・カートランドが破産自殺したことによって、一家の財政事情に激震が走った[2]。しかし、積極的な母はロンドンにドレスショップを開いて収入を得て、3人の子どもを育てた。弟のアンソニーとロナルドは2人とも1940年に戦死した[1]

私立の女子校アリス・オッタリー・スクール、マルヴァーン女子カレッジ、ハンプシャーの教育機関アビー・ハウスを出た後、レポーターとして有名になり、ロマンス作家となった。初期の作品は、カートランド自身が心酔し後に友人にもなったエドワード7世時代の作家エリノア・グリン(英語版)の影響を受けていると語っている。
小説「バーバラ・カートランドの著作一覧」も参照

タブロイド紙『デイリー・エクスプレス』でゴシップコラムニストを1年務めた後、1922年に処女作"Jigsaw" を上梓。これはきわどい社会派スリラー作品で、ベストセラーになった。また、淫らなシーンが含まれる作品を生み出し、その内の1つ、1926年に上梓した『甘いフィナーレ』(原題:Blood Money )は、チェンバーレイン・オフィスによって発禁となった。1920年代から1930年代にかけて、カートランドはロンドンの社交界で、その美貌とエネルギッシュな魅力のある若く有名なホステスであった。デザイナーのノーマン・ハートネルの最初の依頼者の1人でもあり、1979年にハートネルが亡くなるまで、カートランドのファッションセンスは注目を浴びる役目を負っていた。ハートネルはカートランドのウェディングドレスのデザインも請け負い、彼の意志とは裏腹にカートランドのデザインが採用されたが、後にカートランドはハートネルのデザインにしておけばよかったと認めている。

1950年、カートランドの初期の歴史ロマンス作品にジョージェット・ヘイヤーの作品から、登場人物の名前・特徴、会話、あらすじなどの明白な剽窃があると読者に指摘された。特に、1949年の"A Hazard of Hearts"はヘイヤーの"Friday's Child" の登場人物を置き換えただけだった。1950年の"The Knave of Hearts" に関しては、ヘイヤー自身が「1926年に出した『愛の陰影』(原題:"These Old Shades" )から主要人物やあらすじなどかなりの部分が引用されている」「それほど目立たないシーンや登場人物にも自分の作品4冊からの引用が見られる」と強く主張した。ヘイヤーは剽窃部分を細かく分析し、弁護士に依頼したが、法廷闘争となる事はなかった[5]

自ら「ロマンス専門」と謳っていたカートランドのイメージは崩れ去り、冷笑の対象となり、後年の彼女はより保守的になった。処女作はセンセーショナルだったが、後年の作品(と言っても人気に変わりはない)ではヒロイン処女で、淫らなシーンもほとんどなく、比較的精彩を欠く単調なものが多く、そのほとんど全てが信じることや貞節をテーマとした歴史ものだった。

ストーリーが単調にもかかわらず、カートランドの作品は常によく売れた。1983年まで"Who's Who" で記事の長さが最長で(大部分は作品リスト)、世界で最も販売数の多い作家としてギネス世界記録にも登録された。1990年代半ばには販売数は10億部を超え、雑誌『ヴォーグ』は「ロマンスの本当の女王」と形容した。トレードマークのピンクのドレスと濃い紫色の帽子姿でメディアで有名になり、恋愛や結婚、政治、宗教、ファッションなどについて語った。公立学校での礼拝の中止に否定的で、また浮気や離婚にも道徳観が欠如しているとして反対した。

1983年には23冊の作品を上梓し、ギネス世界記録に単年度執筆最多作家として登録された。
音楽活動

1978年、ステート・レコードから"An Album Of Love Songs" を出した[6]。"I'll Follow My Secret Heart" や "A Nightingale Sang in Berkeley Square" などのスタンダードナンバーをカートランド自身が歌い、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団と共演した曲が収められている[7]
航空業界への貢献

私的に滑空飛行(グライディング)に興味を持っていた。離陸時に牽引する初のグライダー飛行はドイツで行われたが、これはカートランドが考え付いたもので、1931年に2人乗りグライダーでの長距離飛行を実行し、200マイル(約360km)を飛んだ。後にこのアイディアは軍用グライダーに採用された。1984年、この功績により"Bishop Wright Air Industry Award" を授与された[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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