バーニー・トーピン
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バーニー・トーピン
トライベッカ映画祭で『ザ・ユニオン』のプレミアに出席したトーピン(2011年)
基本情報
出生名バーナード・ジョン・トーピン
生誕 (1950-05-22) 1950年5月22日(73歳)
 イングランドリンカンシャー、スリーフォード
出身地 イングランドロンドン[1]
ジャンル

ロック

ポップ

カントリー

職業

ビジュアルアーティスト

作詞家

シンガーソングライター

担当楽器ヴォーカル
活動期間1967年?現在
レーベルアイランド・レコード
共同作業者

エルトン・ジョン

アリス・クーパー

マーティン・ペイジ

バーニー・トーピン (Bernie Taupin CBE) は、イギリス系アメリカ人作詞家。長きにわたるエルトン・ジョンとの共作で知られ、彼の楽曲のほとんどで詞を手がけている。本名バーナード・ジョン・トーピン (Bernard John Taupin)。

1967年、トーピンは、イギリスの音楽誌『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』に出されていた広告を見て、リバティ・レコードの新たなソングライターに応募した[1]。同じ広告にはエルトン・ジョンも応募しており、以来多くのプロジェクトに共同で関わってきた[1][2]。トーピンとジョンは、1992年に「ソングライターの殿堂」入りを果たしている[3]。2022年、大英帝国勲章CBE受章[4]
少年時代

トーピンは、イングランド、リンカンシャー南部、アンウィックとスリーフォードの間に位置する農園、フラッターズハウスで生まれた。母はダフネ・トーピン(旧姓コート)、父はロバート・トーピンである[5][6]。父方の祖父母はフランス人で、父ロバートはディジョンで教育を受けた後、マーケット・レーゼンに近い大農園で酪農家として雇われていた。一方母ダフネは、以前はスイスに暮らしながら乳母として働いていた[7]。やがて一家は、電気も通っていなかったフラッターズハウスから、ローストンに移り住む[7][8]

トーピンの父は、農家として独立することにし、一家はさらに、オウンビー=バイ=スピタル村のモルトキルン農場に移った[9]。トーピンの11歳年下の弟、キットはここで生まれている[7][8]

グラマースクールに進学した兄のトニーと違い、トーピンは早くから執筆の才能はあったものの、真面目な生徒ではなかった。15歳のとき、学校を中退すると、ジャーナリストになることを夢見て、地元新聞『リンカンシャー・スタンダード』の印刷室で見習いとして働き始めた[10]。しかし、すぐに仕事をやめると、10代の残りの期間は仲間とたむろし、田舎道でヒッチハイクして周辺の村で行われていた若者のクラブダンスに参加したり、マーケット・レーゼンのアストンアームズ・パブで飲みながらスヌーカーをしたりして過ごした[11]。17歳になるといくつかのアルバイトをこなすようになり、やがてエルトン・ジョンとの出会いにつながる広告にたどりついた[7][8]
初期の影響

トーピンの母親はフランス文学を学んでおり、母方の祖父、ジョン・レオナルド・パルチェット・"ポピー"・コートはケンブリッジ大学を卒業した古典教師であった[7]。彼らは自然や文学、物語詩の知識をトーピンに与え、初期の歌詞にはこの影響が色濃い[7][8]
エルトン・ジョンとの活動トーピン(左)とエルトン・ジョン(1971年)

1967年、トーピンは、リバティレコードのA&Rを務めていたレイ・ウィリアムスが『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』誌に出したタレント公募に応募する。エルトン・ジョンもまた、同じ広告に応募していた。トーピンもジョンもリバティレコードのオーディションには合格しなかったが、オーディションの際にジョンは、後ろの机に座っていた男性に、詩を書くのが苦手だと打ち明けた。すると男性は提出された歌詞の山から封筒を取ってジョンに手渡した。帰りのロンドン地下鉄で、彼は封筒を開けたが、そこにはトーピンの詞が納められていた[12]

2人はこれまで30枚以上のアルバムを共に制作している。1977年から79年にかけては互いに共作を休止する期間があったが、この間トーピンはアリス・クーパーなどほかのミュージシャンと、ジョンはゲイリー・オズボーンやトム・ロビンソンなどほかの作詞家と仕事をしている。ただし、この期間にリリースされたアルバム『シングル・マン』からも、シングルA面「僕の小さなわがまま」や「ソング・フォー・ガイ」B面の「ラブシック」、「パート・タイム・ラヴ」B面の「アイ・クライ・アット・ナイト」は2人の共作となっている。

ジョンとトーピンは、1980年に共作を再開し、『21 AT 33』、『ザ・フォックス』、『ジャンプ・アップ』では3?4曲の作詞をトーピンが担当している。1983年の『トゥー・ロウ・フォー・ゼロ』で、2人は完全な関係を取り戻し、以降のジョンのソロ作品にはトーピンの歌詞が採用されている。ただし、ジョンはミュージカルや映画プロジェクトではほかの作詞家と仕事をすることもあり、1994年の『ライオン・キング』や2000年の『アイーダ』ではティム・ライスが、2005年の『ビリー・エリオット』では原作映画の脚本も手がけたリー・ホールがそれぞれ歌詞を担当している。ホールは、トーピンが登場するエルトン・ジョンの伝記映画『ロケットマン』でも脚本を書いている。

トーピンは、最初のヒットとなった「僕の歌は君の歌」をはじめとし、「ロケット・マン」、「リーヴォンの生涯」、「クロコダイル・ロック」、「ホンキー・キャット」、「可愛いダンサー」、「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」、「土曜の夜は僕の生きがい」、「ベニーとジェッツ」、「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」、「モナ・リザ・アンド・マッド・ハッター」、「僕の瞳に小さな太陽」、「あばずれさんのお帰り」、「ダニエル」といった1970年代のヒット曲の作詞を手がけている。また、1980年代には「アイム・スティル・スタンディング」、「ブルースはお好き?」、「サッド・ソングス」、「悲しみのニキタ」など、1990年代には「ザ・ワン」、「シンプル・ライフ」、「ラスト・ソング」、「恋人たちの酒場」、「ビリーヴ」などを担当している。1997年9月には、ダイアナ妃の急逝を受けて「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」を書き直し、「キャンドル・イン・ザ・ウィンド1997」として捧げた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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