紋章地図
(郡の位置)
基本情報
連邦州:ヘッセン州
行政管区:ダルムシュタット行政管区
郡:ホーホタウヌス郡
緯度経度:.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯50度13分45秒 東経08度36分38秒 / 北緯50.22917度 東経8.61056度 / 50.22917; 8.61056
54,144人(2021年12月31日現在)[1]
人口密度:1,059 人/km2
郵便番号:61348, 61350, 61352
市外局番:06172
ナンバープレート:HG, USI
自治体コード:
06 4 34 001
行政庁舎の住所:Rathausplatz 1
61348 Bad Homburg v. d. Hohe
ウェブサイト:www.bad-homburg.de
首長:アレクサンダー・ヘッチェス (Alexander Hetjes)
郡内の位置
地図
バート・ホムブルク・フォア・デア・ヘーエ(ドイツ語: Bad Homburg vor der Hohe, 公式表記は Bad Homburg v. d. Hohe)[2] は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州ダルムシュタット行政管区に属すホーホタウヌス郡の市である。本市は同郡の郡庁所在地であり、ヘッセン州に 7つある特別市の 1つである。バート・ホムブルクは湯治場であると同時に、ヘッセン地方発展プランにより中規模中心に指定されている。本市は、「シャンパンの空気と伝統」をモットーに保養地ならびに会議都市としてアピールしている。
人口約 53,000人のバート・ホムブルク市は、人口密集地域のライン=マイン地方に位置しており、フランクフルト・アム・マインと直接境を接している。「バート」(温泉地を意味する)の肩書きは、1912年11月22日から使用されている。バート・ホムブルクは、保養地として、また「モンテカルロの母」とも呼ばれるカジノで国際的に知られている。さらに本市は、邸宅街を有する高級住宅地としても知られている。この保養地は、他のタウヌス地方の都市と同様に、フランクフルトで働く、特に高額収入の通勤者に人気の住宅地である。ホムブルクは、地元の者よりも外国人が多く働く企業の所在地でもある。本市は連邦補償庁の本部所在地であり、中央役務・未解決財産問題連邦庁の支所がある。
バート・ホムブルクは2012年に購買力インデックス 156 % と(連邦平均を 100 % とする)、ドイツ全体でトップクラスの値を示した[3]。ホーホタウヌス郡でこれよりも高い値は、ケーニヒシュタインの 191 %、クローンベルクの 179 % であった[4][5][6]。 バート・ホムブルク市は、海抜137mから250mに位置しており、その中心部は194mである。 バート・ホムブルクは、北はヴェールハイムおよびフリードリヒスドルフ、東はロスバッハ・フォア・デア・ヘーエおよびカルベン(ともにヴェッテラウ郡)、南は郡独立市のフランクフルト・アム・マイン、南西はオーバーウルゼル、西は(わずかな部分だけであるが)シュミッテン、北西はノイ=アンスパハと境を接している。 ホムブルク市の名称 (Homburg) は、ホーエンベルク城 (Burg Hohenberg) に由来する。Die Hohe がタウヌス山地の伝統的な名称で、現在の名称は18世紀になって初めて用いられた。 ホムブルク、現在のバート・ホムブルク市は1180年頃に初めて文献で裏付けられている。考古学的調査は、同時期の集落の証拠を提示した。782年のロルシュ文書
地理
隣接する市町村
市の構成
内市街(旧市街を含む)
ベルリナー・ジートルング/ガルテンフェルト
ドルンホルツハウゼン
ゴンツェンハイム
キルドルフ
オーバー=エルレンバッハ
オーバー=エシュバッハ
歴史
1330年頃にホムブルクに都市権および市場開催権が与えられたという説も、該当する文書は存在せず、決定的な証拠はない。皇帝ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)は1335年にエップシュタイン家に対して、その所領にあたる「Hoenberg」の谷と城にも、シュタインハイムやエップシュタインと同様に10人ほどのユダヤ人が住む事を許可した。ルートヴィヒはこの2つの街のいずれにも都市権を授けた[7]。ホムブルクにもこれは適用され、15世紀には、ホムブルクは「市」と呼ばれている。1655年出版のマテウス・メーリアンの銅版画に描かれたホムブルク
1486年にゴットフリート10世フォン・エップシュタインは、城、アムト、ホムブルク市を19,000グルデンでハーナウ=ミュンツェンベルク伯フィリップ1世に売却した。ハーナウ家(ドイツ語版、英語版)は1504年/1521年にランツフート継承戦争(ドイツ語版、英語版)で敗者の陣営に参戦したためホムブルクを失い、再びヘッセン方伯領となった。フィリップ1世方伯の死後ホムブルクはヘッセン=ダルムシュタット家の所領となり、1622年にその分家であるヘッセン=ホムブルク家(ドイツ語版、英語版)のものとなった。1866年、ヘッセン=ホムブルク方伯家の断絶によりその所領はヘッセン=ダルムシュタット大公に返還されたが、同年の普墺戦争の結果プロイセン領となった。
19世紀半ばから温泉業が興り、カジノの建設により大いに利益を上げたことで、本市は国際的に有名な温泉保養地に変貌していった。
バート・ホムブルクは1888年以降皇帝ヴィルヘルム2世の夏の宮廷都市となった。
ホレックスは、1923年にフリッツ・クレーマンがバート・ホムブルクに設立したドイツのオートバイメーカーであった。バート・ホムブルクにはホレックス博物館が造られた。移転したホレックス工場の近くに160万ユーロを費やして建設された新しい建物が2012年9月にオープンした[8][9]。
第二次世界大戦末期の1945年3月30日にバート・ホムブルクはアメリカ軍第3軍に占領された[10]。バート・ホムブルクのクアハウス
バート・ホムブルクの温泉業は特に第二次世界大戦後、特に戦時中に爆撃で甚大な損傷を受けたクアハウスが再建されて以後、力強い復興を遂げた。高級ホテルは軍政府に接収されていた。役所や行政機関の所在地となったことからも本市の重要性が判る。早くも1946年秋に軍政府は米英管理地区の役所の建設を命じたが、財務局の所在地はバート・ホムブルクであった。1947年7月23日に通貨改革のための準備を行う米英管理地区の経済官庁「金融および融資特別局」が設けられ、ルートヴィヒ・エアハルトがその長官に就任した。連邦共和国建設後は首都ボンとともにバート・ホムブルクにも連邦負債管理局が置かれた。この官庁は2002年に連邦有価証券管理局と改名され、2006年8月1日からドイツ金融庁の一部となった。これは有価証券と連邦補償のための行政機関である。
20世紀が進むにつれ、バート・ホムブルクは裕福なフランクフルトの家族に人気の住宅地となっていった。その人気はフランクフルトの戦争被害によって高まる傾向にあった。1989年11月30日、バート・ホムブルクでドイツ銀行頭取のアルフレート・ヘルハウゼン(ドイツ語版、英語版)が爆死した。