バート・ナウハイム
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、ドイツ、ヘッセン州ヴェッテラ郡の都市(温泉街)について説明しています。グロース=ゲーラウ郡の街については「ナウハイム」をご覧ください。

紋章地図
(郡の位置)

基本情報
連邦州:ヘッセン州
行政管区:ダルムシュタット行政管区
郡:ヴェッテラウ郡
緯度経度:.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯50度21分55秒 東経08度44分33秒 / 北緯50.36528度 東経8.74250度 / 50.36528; 8.74250座標: 北緯50度21分55秒 東経08度44分33秒 / 北緯50.36528度 東経8.74250度 / 50.36528; 8.74250
標高:海抜 151 m
面積:32.54 km2
人口:

32,777人(2021年12月31日現在)[1]
人口密度:1,007 人/km2
郵便番号:61231
市外局番:06032
ナンバープレート:FB, BUD
自治体コード:

06 4 40 002
行政庁舎の住所:Parkstrase 36?38
61231 Bad Nauheim
ウェブサイト:www.bad-nauheim.de
首長:クラウス・クレス (Klaus Kres)
郡内の位置

地図

シュプルーデルホーフの泉

バート・ナウハイム (ドイツ語: Bad Nauheim, ドイツ語発音: [ba?t ?na?uha?im][2]) は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州ヴェッテラウ郡に属す市である。同郡ではバート・フィルベルに次いで2番目に大きな市である。心臓疾患神経疾患に効果がある塩分を含んだ炭酸泉として、世界的に有名な温泉リゾート地である。
地理
位置

バート・ナウハイムは、フランクフルト・アム・マインの北 28 km(直線距離)、タウヌス山地東端の海抜 148 m に位置している。市内をヴェッター川(ドイツ語版、英語版)とウザ川が流れている。
隣接する市町村

バート・ナウハイム市は、北はロッケンベルク、東はヴェルファースハイム、南は郡庁所在地のフリートベルク (ヘッセン)、西はオーバー=メルレンと境を接している(いずれもヴェッテラウ郡)。本市とフリートベルクは両市共同で上級中心都市機能の一部を有する中級中心をなしている。
市の構成

バート・ナウハイムは、中核市区、ニーダー=メルレン、レトゲン、シュヴァルハイム、シュタインフルト、ヴィッセルスハイムの各市区からなる。
歴史
古代

バート・ナウハイムの鉱泉周辺では、石器時代からの入植地跡が確認されている。ケルト人が鉱泉からシステマチックに食塩を精製していたこの入植地は極めて重要な集落であった。市の中心部における考古学的発掘により、ケルト時代の大きな製塩装置の一部が出土した。塩分を含んだ土壌のため良い状態で保存されていた木製の導管・水槽システムは、工業生産に近い方法で製塩が行われていたことを示している。ローマ時代でもバート・ナウハイムは重要な存在であった。製塩所が稼働し、後に都市となる場所にカストラが設けられ、ヨハニスベルクに信号塔が建設された。これらはカステル・フリートベルクとともにリーメスに組み込まれていた。
中世

ナウハイムの現存する最も古い記録は、ゼーリゲンシュタット修道院の900年頃の租税簿に Niwiheim という表記でなされている。14世紀には製塩所が初めて記録されている。元々はファルケンシュタイン家の所領であったが、1304年以前にハーナウ家(後のハーナウ伯)に属し、その後はハーナウ=ミュンツェンベルク伯(ドイツ語版、英語版)領となった。1478年にゼーリゲンシュタット修道院が保持していたすべての権利は、修道院のハーナウ=ミュンツェンベルク伯フィリップ1世に対する借金の抵当としてハーナウ=ミュンツェンベルク伯のものとなった[3]。この伯領でナウハイムは、1597年に新しく創設されたアムト・ドルハイムに編入された。

1231年に初めて司祭に関する報告がなされ、1307年に独立した教区について記載された。教会組織上はマインツ大司教区内に位置するこの町は、フリードベルク首席司祭区のマインツの聖マリア・アド・グラドゥス助祭長区に属した。その保護権は、初めはゼーリゲンシュタット修道院にあったが、後にマインツ司教座聖堂参事会に移された。
近世バート・ナウハイムに現存する5つの枝条架装置の一つ 枝条架装置 I

ハーナウ=ミュンツェンベルク伯の下、16世紀半ばに宗教改革が徐々に浸透していった。初めはルター派の信仰が興った。しかし、「第2の宗教改革」でハーナウ=ミュンツェンベルク伯家の信仰は改められた。フィリップ・ルートヴィヒ2世(ドイツ語版、英語版)伯は1597年から明らかに改革派の教会政策を執っている。彼は領主としての権利である Jus reformandi(Cuius regio, eius religio(ドイツ語版、英語版) = 領主の信仰が領民の信仰となる)を行使し、領民の信仰を決定した。これはハーナウ=ミュンツェンベルク伯領全域に対して行われ、ナウハイムにも適用された。

1642年にハーナウ=ミュンツェンベルク伯家が断絶した際、その遺領はルター派の家系であるハーナウ=リヒテンベルク伯(ドイツ語版、英語版)家出身のフリードリヒ=カジミール伯が相続した。フリードリヒ=カジミール伯とその後継者たちはルター派教会を支援し、なおも多数派の改革派住民の抵抗に対抗させた。これによりナウハイムも数十年間、事実上2つの宗派が併存する状態となっていた。1731年から1733年に、まだ改革派の信仰を保持していた中世のナウハイムの教会(その後継教会がヴィルヘルムス教会である)に加えて、アムト・ドルハイムの少数派であるルター派信者のために第2の教会としてラインハルツ教会が建設された。グローセス・ラート

最後のハーナウ伯ヨハン・ラインハルト3世(ドイツ語版、英語版)の死後、1736年ヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ1世がこれを相続した。これは1643年にハーナウ=ミュンツェンベルク伯家と締結した相続協定に基づくものであった。これに伴いアムト・ドルハイムおよびナウハイム村もヘッセン=カッセル方伯領となった。製塩所は18世紀初めに新たな隆盛期を迎えた。新しい方式の枝条架装置シュヴァルツドルングラディールングが木材の消費量を抑制し、稼働コストが劇的に低減した。ヴェッター川の水力で稼働する水車「グローセス・ラート」(直訳すると「大きな輪」)は、1745年から1748年に建設されたもので、直径は 9.8 m である。長さ 886 m の運動桿(現在は 170 m が現存)がその動力を、水を枝条架装置に汲み上げるポンプに伝えた。

ヘッセン=カッセル方伯は 1803年選帝侯に昇格し、その領邦はヘッセン選帝侯領という名に改められた。ナポレオンの時代、アムト・ドルハイムは 1806年からナポレオン軍政下、1807年から1810年までハーナウ侯領、1810年から1813年までフランクフルト大公国ハーナウ県に属した。ウィーン会議後はヘッセン選帝侯領に戻された。

1818年、ハーナウ選帝侯領のルター派教会と改革派教会の牧師は、両教会の連合体であるハーナウ連合を結成した。

1821年のヘッセン選帝侯領の行政改革の結果、ヘッセン選帝侯領は 4つの州、22の郡に分けられ、ナウハイムは新たに創設されたハーナウ郡に割り当てられた。ナウハイムは最後のヘッセン選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム1世によって1854年に都市権を授けられた。1866年普墺戦争後、プロイセン王国が、敗者側となったヘッセン選帝侯領を併合した。アムト・ドルハイムは、1866年9月3日の平和条約に基づき、プロイセンから領土交換によってヘッセン=ダルムシュタット大公国に移管された。ここでナウハイムは、オーバーヘッセン州フリートベルク郡に属した。
湯治場としての発展

19世紀半ばに鉱泉学が発達し、バート・ナウハイムは心臓循環器病患者のための湯治場となった。1846年には「グローサー・シュプルーデル」(直訳すると「大湧出泉」)が発見された。自然に湧出した炭酸泉が発見され温浴鉱泉とし活用されるその一連の過程に特殊性が認められる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:71 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef