バート・ゴーデスベルク
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この項目では、ドイツの都市について説明しています。その他の用法については「ボン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ボン
Bonn
連邦都市



印章



標語: Stadt. City. Ville. Bonn.

.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯50度44分9.06秒 西経7度6分2.38秒 / 北緯50.7358500度 西経7.1006611度 / 50.7358500; -7.1006611
国ドイツ連邦共和国
州ノルトライン=ヴェストファーレン州
行政管区ケルン
最古の史料紀元前11年
政府
 ? 行政機関ボン市(連邦都市)
 ? 市長カーチャ・デルナー(同盟90/緑の党)
面積[1]
 ? 総計141.1 km2
 ? 都市46.7 km2
 ? 森林39.8 km2
標高[2]68 m
人口(2022年1月1日現在)[1]
 ? 総計335,975人
 ? 男性162,519人
 ? 女性173,449人
等時帯UTC+1 (CET)
 ? 夏時間UTC+2 (CEST)
郵便番号(PLZ)53111?53129, 53173?53179, 53225, 53227, 53229
市外局番0228
ナンバープレートBN
ウェブサイトwww.bonn.de

ボン(: Bonn)は、ドイツ連邦共和国の都市である。首都機能をベルリンと分掌する「連邦都市」で、ドイツ北西部のノルトライン=ヴェストファーレン州の南端、ライン川西岸に位置し、2,000年の歴史を有している[3]

人口は335,975人で、約176か国からの移民背景を持つ102,761人が住んでおり、そのうち60,193人が外国籍である[注 1]。移民元の上位はシリア(9.2%)、トルコ(8.0%)で、ポーランド(6.7%)、モロッコ(5.8%)がそれに続く。市民の31.3%がカトリック、17.7%がプロテスタント、11.2%がイスラム教徒としている[注 1]。就労人口は183,450人で、そのうち第三次産業の従事者が92.8%を占める[注 2]
交通
空路経由

フランクフルト空港から郊外のジークブルク/ボン駅に停車するインターシティ=エクスプレス(ICE)の超特急列車がある[4]。その所要時間は38分だが、ボン市街地にあるボン中央駅までは、ジークブルク/ボン駅から軌道車に乗り換え、さらに25分掛かる[4]フランクフルト・ハーン空港は、高速道路経由で1時間25分の距離にある[5]ケルン/ボン空港からボン市街地にあるボン中央駅(ドイツ語版)へは、所要20分の高速バスが利用できる[4]
鉄路経由

郊外のジークブルク/ボン駅と市街地にあるボン中央駅は、欧州各都市を結ぶ長距離列車の停車駅である。乗り換えがない直通列車に限ると、ジークブルク/ボン駅へはフランクフルト空港ミュンヘンなどからのICE、ボン中央駅へはベルリンから所要4時間20分の速達列車ICEスプリンター、ウィーンからシュトゥットガルトなどを経由するICE、インスブルックブリュッセルアムステルダムからの夜行列車OBBナイトジェットが乗り入れている[6][7]
道路経由

幹線高速道路である3号線から伸びる複数の支線が市内に接続しており、欧州各都市から長距離高速バスが乗り入れている。旅行時間は、ブリュッセルから3時間、フランクフルトからは1時間30分である[4]
航路経由

ボンの川湊には、遠くはマインツ、近くはケルンから、旅客船が運行されている[8]
歴史

古代はローマ帝国城塞の城下町として、中世は聖職領邦の首都として、近代はボン大学を中心とした学園都市として発展した。戦後、西ドイツの暫定首都として国際舞台に登場し、ベルリン遷都後は国際機関が集まる国際都市となった[9][10]
城塞都市

ローマ帝国は、紀元前58年から始まったガリア戦争で、ライン川西岸を支配するに至った[11]。東岸からの攻撃に備え、幾つもの軍団が西岸に配置され、紀元前48年に創設された第1軍団ゲルマニカ: Legio I Germanica)は当地に城塞を構え、門前には街が形成された[12]。この時期、当地はラテン語で「良い」を意味する「ボンナ(: Bonna)」と呼ばれ、「ボン(: Bonn)」の語源となった[13]。紀元後82年からは第1軍団ミネルウァ: Legio I Minervia)が駐屯し、353年頃まで続いた[12]。城塞は放棄されたが街は存続し続けた[9]
領邦首都「ケルン選帝侯領」も参照

ケルン選帝侯: Kurfurst von Koln)のコンラート1世(独: Konrad I.)は1244年に、ボンに城壁、塔、寺院並びに墓地の整備を命じた[9]。次侯のエンゲルベルト2世(独: Engelbert II.)は、1263年ケルンを追われ、ボンに居を構えた[9]。以来、ボンは聖職領邦の首都として繁栄した。1689年ボン包囲戦で街が完全に破壊されると、その復興の過程でロココ調の街並みが形作られた[14]。選帝侯宮殿(独: Poppelsdorfer Schloss)や市庁舎旧館(独: Altes Rathaus)など、今日に残る歴史的建造物の多くがこの時期に建設されたものである[14]1761年から1784年まで在位したマクシミリアン・フリードリヒ(独: Maximilian Friedrich)は、ボン大学: Rheinische Friedrich-Wilhelms-Universitat Bonn)の前身となるケルン選帝侯領ボン・アカデミー(: Kurkolnische Akademie Bonn)を設立するとともに、ボンで生まれたルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン: Ludwig van Beethoven)を支援した[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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