(国旗)(国章)
国歌: Badnerlied
ドイツ帝国内におけるバーデン大公国
首都カールスルーエ
君主
1112年 - 1130年ヘルマン2世
1738年 - 1811年カール・フリードリヒ
1907年 - 1918年フリードリヒ2世
変遷
成立1112年
選帝侯領へ昇格1803年
大公国へ昇格1806年
ドイツ統一1871年
滅亡1918年
バーデン(標準ドイツ語: Land Baden, アレマン語: Land Bade)は、ドイツ南西部、現在のバーデン=ヴュルテンベルク州に存在した領邦。
12世紀にツェーリンゲン家を領主とするバーデン辺境伯領 (Markgrafschaft Baden
) として成立。中世には分割と併合を繰り返したのち、18世紀に再びバーデン辺境伯領として再統合された。ナポレオン戦争の中で領土を拡大し中堅領邦に成長、1803年には選帝権が与えられる。神聖ローマ帝国解体後の1806年にバーデン大公国 (Grosherzogtum Baden) となり、1871年にドイツ帝国の構成国の一つとなった。ドイツの南西部に位置し、南と西の境界線はライン川である。主要都市のほとんどはライン地溝帯に所在しており、南(上流)側からレーラッハ(ドイツ語版)、フライブルク・イム・ブライスガウ、カールスルーエ、マンハイムが連なる。
ライン川をはさんで南にスイス、西にエルザス(現在はフランス領のアルザス)と隣接する。ドイツ帝国の時期は、北西にプファルツ地方(バイエルン王国の飛び地領)、北にヘッセン大公国、北東にバイエルン王国と接していた。東側にはヴュルテンベルク王国があり、南のクライヒガウ(ドイツ語版)地方からシュヴァルツヴァルト(黒い森)を通って走っており、ガッゲナウ(ドイツ語版)付近では「蜂腰」Wespentailleと呼ばれるように領土の幅が11kmにまで狭まっている。また、南東部でプロイセン王国の飛び地領(ホーエンツォレルン州(ドイツ語版))とも接していた。 1112年にツェーリンゲン家のヘルマン2世がシュヴァーベンにおいて辺境伯となり、子孫(バーデン系ツェーリンゲン家)が代々所領と財産を引き継いでいったことから始まる。バーデン辺境伯という称号はヘルマン2世がバーデン=バーデンにあるホーエンバーデン城
歴史
12世紀から18世紀まで
1475年に辺境伯となったクリストフ1世はハッハベルク=ザウセンベルク辺境伯家(ドイツ語版)を併合、バーデンバーデンに新宮殿 (de:Neues Schloss (Baden-Baden)) を築くなどしたが、晩年は心身を弱らせ、1515年に3人の息子(ベルンハルト3世、フィリップ (de:Philipp I. (Baden)) 、エルンスト (de:Ernst (Baden-Durlach)) )に統治権を譲らざるを得なくなった。クリストフ1世は1527年に死去、共同統治者の1人であったフィリップが1533年に没し、バーデン辺境伯領はバーデン=バーデン辺境伯領(ドイツ語版)(ベルンハルト3世の系統)とバーデン=ドゥルラハ辺境伯領(ドイツ語版)(エルンストの系統)に分割された。ドイツの宗教改革の中で、領邦の信仰もバーデン=バーデンはカトリック、バーデン=ドゥルラハはプロテスタントと分かれた。
17世紀末に発生した大同盟戦争では、バーデン=バーデンやドゥルラハが大きな被害が出た。バーデン=バーデン辺境伯で、神聖ローマ帝国(ハプスブルク帝国)の名将として名をはせたルートヴィヒ・ヴィルヘルムは、ラシュタットに新たな城館を築いて本拠を移した。バーデン=ドゥルラハでもカール3世ヴィルヘルムが新たな本拠地として計画都市カールスルーエの建設を始めた。なお、ラシュタットでは1714年にラシュタット条約(フランスとオーストリアとの間のスペイン継承戦争講和条約)が結ばれている。辺境伯を称していた時代のカール・フリードリヒ
1771年、バーデン=バーデン辺境伯アウグスト・ゲオルク(ルートヴィヒ・ヴィルヘルムの子)が嗣子なくして没する。