公用語ドイツ語
首都カールスルーエ
首相
1918年11月10日 - 1920年8月4日アントン・ガイス
面積
15,070km²
人口
2,312,462人
変遷
ドイツ革命1918年11月9日
州憲法成立1919年3月21日
自治権停止1933年3月8日
バーデン=ヴュルテンベルク州1952年4月25日
現在 ドイツ連邦共和国
バーデン共和国(ドイツ語: Republik Baden)は、1918年のドイツ革命によるバーデン大公国の解体によって成立した、ドイツ国の州のひとつである。ヴァイマル共和政の下で議会制民主主義を敷いていた。ドイツ国の州の中では唯一「共和国(Republik)」を名乗った州である。
成立までバーデン共和国
1918年10月にバーデン大公フリードリヒ2世の従弟で自由主義者のマクシミリアン・フォン・バーデンが帝国宰相となり、11月2日にはバーデン大公国でも選挙制度改革の実施が発表されたが、革命への流れを防ぐことはできなかった。11月3日のキールの反乱に続いて11月8日にはラールとオッフェンブルク、その翌日にはマンハイム、さらには首都カールスルーエでも労兵レーテが結成された。一方、カールスルーエでは市政府、市議会や政党が福祉委員会を組織して労兵レーテとの交渉にあたり、11月10日には臨時政府の樹立を宣言[1]して翌11日には労兵レーテがこれを受け入れた。
新首相に選出されたアントン・ガイスは、前首相ハインリヒ・フォン・ウント・ツー・ボートマンとともにツヴィンゲンベルク城に退避したフリードリヒ2世を訪ね、11月13日には大公から臨時政府の承認を取り付けた[2]。
臨時政府は11月14日にバーデン自由人民共和国 (Freie Volksrepublik Baden) の樹立を宣言し、制憲議会の選挙日を1919年1月5日と決定した[3]。11月22日にはランゲンシュタイン城でフリードリヒ2世が退位宣言に署名し、マクシミリアン・フォン・バーデンの承諾を得て彼を大公世子に指名した[4][5]。退位したフリードリヒ2世は、バーデン辺境伯を名乗った。 1918年11月10日にバーデン臨時政府が樹立されたが、この時点では国名は新たに召集される州議会で決定するとして留保された[6]。これに対して、11月14日に新たに発足したバーデン臨時人民政府は、バーデン自由人民共和国 (Freie Volksrepublik Baden) の樹立を宣言した[7]。 1919年3月21日には憲法が制定された。憲法ではバーデンは民主主義共和国 (demokratische Republik) であると定義づけ、「バーデン共和国 (Badische Republik)」という用語を用いている。多くの文献で君主制廃止後のバーデンを自由州 (Freistaat) あるいは人民共和国 (Volksrepublik) としているが、憲法にはこのどちらの語も使われてはいない。 11月9日夜から10日にかけて、カールスルーエ市長カール・ジークリストが福祉委員会を組織し、労兵レーテと交渉を行った結果、臨時政府を樹立することで合意をみた[8]。 制憲議会は1919年1月5日に選挙が行われ、1月15日に召集された[9]。ドイツ独立社会民主党は議席を確保できなかったため1月7日に臨時政府から退き、ドイツ全土でいわゆるヴァイマル連合を結成したドイツ社会民主党、ドイツ民主党、ドイツ中央党が臨時政府に残った。 1919年3月21日には憲法が制定され、議会は第39条に定められた職権において、第52条に基づいて内閣の閣僚を選出した。第52条では、内閣は「法により員数および職務を定める閣僚により構成される。閣僚は、議会における選挙により選出され、議会が指定する職務を担当する。議会は、1年ごとに閣僚の中から首相およびその代理となる者を任命する。必要に応じて、議会は議会に議席と投票権を持たない組織の構成員を閣僚に任命することができる。その場合、その数は議会に議席を持つ閣僚の数を超えてはならない」[10]と定めており、実際に1920年から1929年までほぼ毎年異なる政党から異なる人物が首相に就任した。 ヴァイマル連合は1929年11月21日までバーデン共和国与党であった。1929年10月の議会選挙で民主党が連立から外れ、中央党と社会民主党が政権を維持した。1930年11月には連立与党にドイツ人民党が参加した。一方、バーデン政教条約を巡って対立が起き、社会民主党が連立から外れた。
国名
政治
政府