バーティ・アハーン
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アイルランド政治家パトリック・バーソロミュー・アハーンPatrick Bartholomew Ahern(英語)
Padraig Parthalan O hEachthairn(アイルランド語)
バーティ・アハーン(ベルリンで行なわれたローマ条約調印50周年記念式典にて、2007年3月25日)
生年月日 (1951-09-12) 1951年9月12日(72歳)
出生地 アイルランド
ダブリン、ドラムコンドラ
出身校ダブリン技術学院
所属政党共和党
公式サイト ⇒The Office of Bertie Ahern
第17代 アイルランド首相
在任期間1997年6月26日 - 2008年5月7日
大統領メアリー・ロビンソン(1997年9月12日まで)
メアリー・マッカリース(1997年11月11日から)
ドイル・エアラン議員
選挙区ダブリン・セントラル
ダブリン・フィングラス1977年 - 1981年
当選回数10回
在任期間1977年6月16日 - 現職
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パトリック・バーソロミュー・アハーン(Patrick Bartholomew Ahern; Padraig Parthalan O hEachthairn, 1951年9月12日 - )は、アイルランド政治家。一般的にはバーティ・アハーン (Bertie Ahern) という名前を用いる。1997年6月26日から2008年5月7日まで同国首相を務めた。

アハーンは1977年から、ダブリン・セントラル選挙区でドイル・エアラン議員に選出されている。首相就任以前には、チャールズ・ホーヒー政権やアルバート・レイノルズ政権において労働相(1987年 - 1991年)や財務相(1991年 - 1994年)を務めている。またレイノルズ連立政権崩壊後、短期間ではあるが副首相を務めた。

1994年、アハーンは共和党の第6代党首に選出される。アハーン体制のもとで共和党は3期にわたる連立政権の首班を務めたが、その首相在任日数はエイモン・デ・ヴァレラに次いで2番目に長いものとなっている。アハーンは2008年5月6日に首相を辞任し、当時財務相だったブライアン・カウエンが後任に就いた。
人物

アハーンはダブリンのドラムコンドラで生まれた。ドラムコンドラはダブリン・セントラル選挙区に含まれており、アハーンは生涯にわたってこの地に住んできた。アハーンはともにコーク県出身である父コンと母ジュリアの間に生まれた5人の子どもの末子である。両親は1937年10月に結婚し、ドラムコンドラのチャーチ・アヴェニューに居を構え、その後の生涯をそこで暮らした[1]。残る4人の兄姉はモーリス、キャスリーン、ノエル、アイリーンである[1]。ダブリンでコンはオール・ハローズ・カレッジの農場経営者で生計を立てていた。また兄ノエルも政治家であり、ダブリン・ノースウェスト選挙区選出でドイル議員に選出されている。

父親のコンは1904年にコーク県キンセール近郊のバリーフィアードの農家に生まれた[2]。母親ジュリアもまた農家の出で、コーク集西部のキャッスルドノヴァン生まれである。コンは1930年代に、司祭に就くためにコーク県を出てダブリンに移ったが、ヴィンセント修道会での修得を終えることができなかった[1][2]。コンはアイルランド内戦を戦い、またエイモン・デ・ヴァレラや反英愛条約派の共和国軍を支持した[2]。コンは共和国軍第3コーク旅団に加わり[1]、独立戦争後も数十年にわたって過激共和派に属し、1990年に永眠した。ジュリアは1998年に87歳で世を去り、ダブリンのグラスネヴィン・セメタリーに埋葬された[3][4]

アハーンはドラムコンドラの聖パトリック国民学校とホワイトホールの聖アイダン・クリスチャンブラザーズで学んだ。その後、ダブリン工科大学のラスマインズ・カレッジ・オブ・コマースで第3段階教育を受ける。自身や他者による人物紹介では、アハーンはユニバーシティ・カレッジ・ダブリンロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学んだとしているが、両大学にはアハーンが学生として在籍していたという記録がない[5]

アハーンはダブリン・メイター病院の経理部門に勤務していたが、2006年のテレビでのインタビュー[6]や2008年5月のラジオでのインタビュー、所属政党のウェブサイト[7]などでは会計士を自称しているものの、いずれの会計士協会からも資格を受けていない。『アイリッシュ・インデペンデント』紙はアハーンを経理事務としている[8]

1972年までにアハーンは後の妻となる、アハーン家の近くに住んでいた銀行員ミリアム・ケリーに出会っている。アハーンとケリーは1975年に結婚した。アハーンはジョージナとセシリアの2人の娘に恵まれた。ジョージナはウエストライフニッキー・バーンと結婚し、セシリアはベストセラー作家となっている。

アハーンとミリアムは1992年に別居している。2003年までアハーンは公務員セリア・ラーキンと愛人関係にあった。このためアハーンは法律上の別居をしていた最初の首相となった[9]

アハーンは敬虔なカトリック教徒である。毎週土曜日の晩にはダブリンの聖マリア臨時司教座聖堂でのミサに列席している[10]。ところがアハーンはセリア・ラーキンとの愛人関係を公にしていることで、かつてのダブリン大司教デスモンド・コネルに批判されている。ラーキンは2005年7月に、アハーンの推薦によって国立消費者公社の取締役に任命された[9]

アハーンはスポーツの熱狂的なファンである。ダブリンGAAのサポータであり、クローク・パークの試合を観戦している[11]。またマンチェスター・ユナイテッドFCを応援し、オールド・トラッフォードでの試合やランズダウン・ロードでのラグビーの試合も観戦する。2001年には RTE Two の番組 The Premiership に評論家として出演している[12]
政界入り後

アハーンは1965年の補欠選挙の活動で、ドラムコンドラの街灯によじ登って選挙ポスターを吊り下げたというところから共和党にかかわっていくようになる[13]。この選挙期間中にアハーンは政治における師で、のちに首相となるチャールズ・ホーヒーと出会う。アハーンは17歳のときに共和党の党員となり、1969年の総選挙ではホーヒーの選挙区で応援活動を行なった。

アハーンが初めて立候補したのは1977年の総選挙であり、この結果共和党は単独政権を発足させた。アハーンは新設されたダブリン・フィングラス選挙区で選好第1位として4000票を集めて当選した。この選挙以降、アハーンは国内でも票を多く受ける候補の1人となっていた。

議員となって間もない頃は、アハーンは無名で議場でも後方に座る新人であったが、野心的な行動を示すこともあった。1979年、選挙区も同じであるホーヒーとジョージ・コリーが党首、そして首相の座を争った。このときアハーンは、1970年代半ばから保健委員会でともに行動してきたホーヒーを支持していたとされている。ホーヒーがコリーとの決戦に勝利したことで、アハーンは首相府担当国務大臣補佐に任命された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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