バーゼル
[Wikipedia|▼Menu]

バーゼル
Basel
Bale
Basilea



基礎自治体(Einwohnergemeinde)

位置

バーゼルの位置
位置
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}バーゼルバーゼル (スイス)

座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯47度34分0秒 東経7度36分0秒 / 北緯47.56667度 東経7.60000度 / 47.56667; 7.60000
行政
スイス
  (Kanton)Wappen des Kantons Basel-Stadtバーゼル=シュタット準州
 区 (Amtsbezirk)-
 基礎自治体(Einwohnergemeinde)バーゼル
地理
面積 
  基礎自治体(Einwohnergemeinde)域23.91 km2 (9.23 mi2)
標高260 m (853 ft)
人口
人口(2016年7月現在)
  基礎自治体(Einwohnergemeinde)域175,617[1]
    人口密度  7,300人/km2(19,000人/mi2)
その他
等時帯中央ヨーロッパ時間 (UTC+1)
夏時間中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2)
郵便番号4000
市外局番061
ナンバープレートBS
公式ウェブサイト : www.bs.ch

バーゼル(: Basel、: Bale(バール)、: Basilea(バジレア))は、スイスの都市。バーゼル=シュタット準州の州都。

バーゼルはスイスの北西部、ライン川沿いに位置する。 チューリッヒジュネーブに次ぐスイス第3の都市で、ライン川の終着点でもあり、川の先端には大型船が通れる港がある。この街はドイツ語圏に属しているが、フランス語を話す人も多い。

バーゼルはスイス第3の都市にして中世から学芸と文化の中心地である[2]。バーゼル=シュタット州には、合計40に近い美術館博物館があり、ヨーロッパ最大の文化センターのひとつとなっている。なかでもバーゼル市立美術館(Kunstmuseum Basel) は、1661年に市が取得したコレクションが核となって生まれた、ヨーロッパ最初の一般公開の美術館で、現在スイスで最も重要な絵画コレクションを擁している。

1460年、バーゼルにスイス初の大学が設立され、数世紀にわたり、 エラスムスレオンハルト・オイラーヤコブ・ブルクハルトフリードリッヒ・ニーチェカール・グスタフ・ユングなどがここで学び、あるいは教えた。
地理

位置は北緯47度34分0秒 東経7度36分0秒 / 北緯47.56667度 東経7.60000度 / 47.56667; 7.60000、標高260m。近隣の都市としては、約75キロ東にチューリヒ、50キロ北にドイツのフライブルク・イム・ブライスガウ、30キロ北西にフランスのミュルーズ、65キロ南にベルンが位置している。市の北端のライン川の中央にスイス・ドイツ・フランスの三国国境があり、それに近いバーゼル川の陸地にドライレンダーエックというモニュメントが立っている。

市街地はライン川をはさんで展開しており、産業地帯である北岸(右岸)を「小バーゼル」(Kleinbasel)、行政や商業の中心である南岸(左岸)を「大バーゼル」(Grossbasel)と呼ぶ。
歴史詳細は「als:Basel#Gschicht」、「カントン・バーゼル(アレマン語版、英語版)」、および「en:Timeline of Basel」を参照

先史時代―中世初期・盛期

バーゼルという名称は、374年にBasilea、Basiliaとして初めて史料に現れ、その後BazelaやBasalaの表記も見られた[3]。≫Konigsburg≪(「王城」)の意味か[4]。≫Eberstadt≪(「オスの猪あるいは豚の都市」)を地名の由来とする説もある[5]

かつてライン平地前の、ライン左岸の台地にあるミュンスターヒューゲル(Munsterhugel)には、以下の遺跡があった。1.台地の突端に骨壺地時代の集落(Urnenfelderzeitliche Siedlung)(紀元前1200年―800年)。2.後の大聖堂の地にOppidum(「城塞」または「城市」)(紀元前1世紀)。3.ローマの軍営地(紀元前15年頃以降)。次第に非軍営的特徴を帯びてゆくが、まもなく都市として構想された植民市Augusta Raurica(紀元前44年に公的に設置)の陰に隠れる。4.古代ローマ時代末期の避難所的な城塞(Kastell)。Augusta Rauricaの近くに置かれた城塞Castrum Rauracense(300年頃)より規模は大きいが、それより防御施設は脆弱。5.中世初期の、通常のイムニテート(公吏不入権)領域(Immunitatsbezirk)をもった司教城(Bischofsburg)(ミュンスタープラッツ(Munsterplatz))[3]

ローマ時代末期の城塞壁の内側には、少なくとも7世紀までガロ・ローマ人(galloromische Bevolkerung)の集落があった。ジュラ山脈方面に向かう道路に沿って3世紀以降、墓地(Basel-Aeschenvorstadt)が存在した。ライン右岸の、ローマ時代末期のBurgusが渡船の安全を守る場所には、5世紀にすでにアラマン人が居住していた。6世紀初め、ライン左岸の街道にはフランク人が登場する。これはバーゼルのフランク王国への実質的編入の印しである[6]

最初の壮大な司教座聖堂(Kathedrale)の建設は、ハット(ないしハイト)司教(Bischof Hatto/Haito;836年没)によるものだろう。メロヴィング時代に建てられたと思われるマルティン教会(Kirche St. Martin)も市にアクセントを与えていた。中世盛期には、手工業者や農民の家屋が建設され、また商人の集落が形成された[7]

バーゼルは870年 以降東フランク王国に、912年から1032年までブルグント王国に属した [5]。もっとも、神聖ローマ皇帝 ハインリヒ2世は、1006年にバーゼル司教アダルベーロ(Adalbero II. ; 999-1025)に種々の高権(Hoheitsrechte)を与えている[8]ブルグント王国全体は1033年/1034年神聖ローマ帝国に併合された。

917年/ 918年にバーゼルはハンガリー人によって破壊された。市の興隆は、ルドルフ3世(ブルグント王)による寄進(999年)と神聖ローマ皇帝 ハインリヒ2世臨席下の司教座教会新聖堂献堂式(1019年)[9]に現れている。叙任権闘争においてハインリヒ4世の強力な支援者であった司教ブルクハルト(Bischof Burkhart von Fenis ; 1072-1107)は、防備施設を築き、クリニュー派の修道分院聖アルバン(Cluniazenserpriorat St.Alban)を創設した(1083年)。12世紀末期には、新しい司教座聖堂の建設が開始され、1202年に献堂式が催された[10]。なお、大聖堂はその後、火災(1258年)や地震(1356年)をくぐり抜け、増改築を繰り返し、現在はゴシック様式の豪壮な姿を示している。人物像を配したガルス門(Galluspforte)は、ロマネスク彫刻の傑作とされる[11]

1225年/ 1226年のハインリヒ・フォン・トゥーン(Heinrich von Thun)による橋梁建設は、ロマネスク時代の終わりと中世盛期の、「郊外市を擁する橋の都市」(Bruckenstadt mit ihren Vorstadten)への移行を成すものであった。1400年より前に完成した新しい市壁は、郊外市を取り込んだ。右岸にはクライン=バーゼル(Klein-Basel)が成立したが、1300年頃に市壁で囲まれ、碁盤目状の区画からなる建設都市の特徴を備えていた。13世紀にはライン都市同盟に参加。1356年のバーゼル地震で街は壊滅的被害を受けた。14世紀- 16世紀の帝国都市時代の最盛期には聖俗の重要建築が出現した[7]11世紀から15世紀まで、各会派の修道院・律院(Kloster und Stifte)が設立され、またベギン会の集まりも記録されている [12]。 

中世末期とそれ以降

1239年教皇グレゴリウス9世神聖ローマ皇帝 フリードリヒ2世が対立した際、司教は前者を支持したが、市は後者の側に立った。1254年には市はライン都市同盟に参加した。このように市は、都市君主としての司教と対立することもあったが、基本的には市の政治は司教側が規定していた。しかし、市が経済力を増すにつれ司教の支配を払拭していき、14世紀には完全に司教支配から脱出した。司教は市外に居を移した。王・皇帝をめぐる帝国の重要事項では、1327年から1346年にかけて、司教はハプスブルク側についたが、市はルートヴィヒ4世を支援した。以後ますます、ブライスガウやアルサスに領地を有する、ライン上流地域最重要勢力のオーストリアとの関係(協調あるいは敵対)が市の政治を規定していくようになる。その後、シュヴァーベン戦争では中立を守ったバーゼル市は1449年のバーゼル和約の2年後にはスイスに加わった。その間、1362年以来「自由都市」を標榜していたバーゼル市は、1387年ヴァーツラフ王による文書においてレーゲンスブルクとともに自由都市と称されている[13]1459年ピウス2世によって設立を認められたバーゼル大学1460年に開学した[14]

中世において市の経済的基盤をなしたのは、聖職者・貴族・市民が周辺の農地から得た税であった。バーゼルは南北に走る重要な街道の中継地に位置していたために商人の活躍は顕著なものがあったが、工業面では、15世紀以降、製紙と書籍印刷が比重を占めた。貨幣鋳造は7世紀以降中世をつうじて行われていた。14世紀以降は金融業も盛んになり、商人たちは15世紀後半以降周辺の鉱山に投資をした。15世紀前半の人口は10000人前後であったが、世紀後半には8000人と9000人の間に留まった[15]。中世末期、「使用人と手工業使用人はバーゼルで人口の17パーセント、納税義務者全体の29パーセントを占めていた」[16]。中世の都市にあっては、一般に女性過剰であったが、バーゼルでの成人男子1000人に対する女子の割合は、1454年時点で1246人であった[17]

15世紀 16世紀にフランスを中心として「死の舞踏」をテーマとする壁画や版画が各地で盛んに描かれたが、バーゼルでは、ここでの「公会議(1431?49年)の間に、この公会議に参加した高位聖職者たちの命によって」「市のドメニコ会修道院の墓地に」フレスコ画が描かれ、「バーゼルの死の踊り」と呼ばれて有名になった[18]

1501年にスイスの原初同盟(Alte EidgenossenschaftまたはOld Swiss Confederacy)に加盟した。1528年には宗教改革の流れの中で司教を追放し、プロテスタント勢力の一員となった。1833年、3年間の内戦を経て周辺の農村地域がバーゼル=ラント準州として独立し、現在に至る。1897年、テオドール・ヘルツルの指揮のもと、バーゼルで第1回シオニスト世界会議が開催された。イスラエル建国(1948年)までの間に、バーゼルで合計10回開催されました。

バーゼルはいくつかの歴史上の出来事の舞台となった。バーゼル公会議(1431年?1449年)は、コンスタンツ公会議(1414年?1418年)で積み残されたカトリック教会の改革を討議したものの、公会議教皇の関係に対する考え方の違いなどを背景に分裂し(1438年)、バーゼルに残留した一派は目立った成果を残せなかった。1499年のバーゼル条約は、スイスの事実上の独立を認めた。時代を下って1897年には世界シオニスト会議が第1回の大会をバーゼルで開催している。

スイスの一州として神聖ローマ帝国の影響を離れ、宗教的にも急進的なプロテスタントではなかったことを背景に、15世紀後半に誕生した印刷・出版業が栄え、ラテン語訳聖書、神学・哲学・法学・教会法学の書籍、教父の著作、人文主義者の作品等、多くの重要な著作が出版されたことでも知られている。中でも有名なのが、アルブレヒト・デューラーによる版画を付した文学作品、エラスムス編集のギリシア語新約聖書(編者によるラテン語訳付き)などである[19]。また、ジャン・カルヴァンの『キリスト教綱要』(Christianae Religionis Institutio、1536年)、アンドレアス・ヴェサリウスの『人体の構造』(De humani corporis fabrica、1543年)も当地で初めて刊行された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:51 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef