バーゼルの和約バーゼルの和約およびカンポ・フォルミオの和約後のヨーロッパ
通称・略称第二次バーゼルの和約(スペイン王国、フランス第一共和政)
署名
1795年4月5日(プロイセン王国、フランス第一共和政)
1795年7月22日(スペイン王国、フランス第一共和政)
1795年8月28日(ヘッセン=カッセル方伯、フランス第一共和政)
署名場所バーゼル
締約国プロイセン王国、スペイン王国、ヘッセン=カッセル方伯、フランス第一共和政
主な内容#内容を参照
関連条約カンポ・フォルミオ条約
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バーゼルの和約(バーゼルのわやく)とは、1795年4月5日にプロイセン王国が、7月22日にスペイン王国が、8月28日にヘッセン=カッセル方伯がフランス共和国との間に締結した、フランス革命戦争の講和条約である。フランスとスペインとの講和条約は第二次バーゼルの和約とも呼ばれる。 フランス革命への干渉を目的として、プロイセンは1792年に、スペインは1793年にフランス革命政府への宣戦布告を行った。 戦況は当初第一次対仏大同盟側の有利に進んだが、フランスは国家総動員体制の整備などによって反撃に転じ、逆に両国の領土内へ攻め入る勢いを見せた。 1795年に至ってプロイセンは戦争の継続を断念し、フランス革命政府との講和を決めた。 講和はバーゼルで行われ、フランスからはスイス公使のフランソワ・ド・バルテルミー、プロイセンからはゴルツ、カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルクが交渉にあたった[1]。 講和によってプロイセンはフランスのラインラント併合を認め、引き換えにライン川以東のフランス軍占領地域はプロイセンへ返還された。 同年、スペインもフランスと和平し、占領地域の回復と引き換えに革命政府の承認とサントドミンゴの割譲を認めた。
経緯
戦争
講和
内容
関連項目
カンポ・フォルミオ条約
バーゼル条約:1992年に結ばれた有害廃棄物に関する国際条約。
注釈、出典^ ソブール 下145
参考文献
アルベール・ソブール著、小場瀬卓三・渡辺惇訳『フランス革命』、岩波新書、1953年(参照したのは1980年の第28版)、上 ISBN 978-4004130215 、下 ISBN 978-4004130222
表
話
編
歴
ナポレオン戦争
戦役
イタリア戦役
モンテノッテ
ロディ
カスティリオーネ
アルコレ
リヴォリ
エジプト・シリア戦役
ピラミッド
ナイル
アッコ
アブキール (1799年)
アブキール (1801年)
アレクサンドリア
アレクサンドリア攻囲
第二次イタリア戦役
マレンゴ
ホーエンリンデン
コペンハーゲン
1805年オーストリア戦役
ウルム戦役
ウルムの戦い
トラファルガー
アウステルリッツ
ドイツ・ポーランド戦役
イエナ・アウエルシュタット
ダンツィヒ
アイラウ
フリートラント
第二次コペンハーゲン